求道と実践の間
~宮澤賢治の文学~
中 川 正 文
(京都女子大助教授)

 宮沢賢治が、どういうつもりで作品を書いたかということは、雨ニモマケズの詩の書かれている手帳に、

  高知尾師の奨メニヨリ
  法華文学ノ創作
  名ヲアラハサズ
  報ヲウケズ
  貢高ノ心ヲハナレ
  
 と記していることでもわかるように、いわば大乗仏教の真髄を文芸によって宣布することにあったようです。

 そう考えて披の重要な作品を見なおすと、代表作「銀河鉄道の夜」をはじめ、ほとんどのものが仏教そのもの、といっていいくらい、仏陀の教えによって貫かれていることがわかります。

 エスぺラント風のバタくさい人物の命名、壮大なオーケストラにも似た、すばらしい表現に飾られて、わたしたちはまぎらわされていますが、作品の一つ一つが、篤い仏教徒としての貿治の求道の道すじの表白に外ならないのです。

 それでわたしは、いつか「宮沢貿治は彼固有の精神を持たなかった。彼のいかなる精神の中にも仏教の影が落ちている」といって、賢治の信者たちから責められたことがありますが、それは賢治を軽くあしらったり、また芸術家としてのマイナスに数えあげたりしたのではありません。むしろ、この世紀では珍しいほどの求道者としての彼のひたむきな姿勢を申しのべたいばかりだったのです。

 仏教が外来文化として、日本人の精神や人間形成のうえに、どれほど大きな役割を果してきたかは、もちろん誰しも認めるところですが、文学とも当然、ふかい結びつきをしてきました。

 けれども近代文学のなかでは、賢治ほど本来の仏教と、本質的ところでの触れあいを示した作品を書いた人は少ないようです。

 たとえば現代作家には、なくなった外村繁や丹羽文雄、児童文学では花岡大学など、きわめて仏教的色あいの濃い人びとがいて、多くのすぐれた作品を残していますが、この作家たちは、仏教によってつちかわれた世界観や人生観を、その作品に反映させている文学者であるに対し、貿治は、文学者であるよりまえに、説教者として伝道者として、仏教の教条を形象化し、異体化しているようです。だから彼が詩人であり作家であったことほ、伝道の形が文学によるものであったという結果、自然にあらわれてきた名義でしよう。わたしが賢治のことを、意識的に詩人、作家というような呼称で呼ばないのは、そのためです。

 すこし執拗ですが、賢治は文学によって求道するのではなく、如来から与えられた求道の通すじに文学をえらんだといっていいのです。この点、まるで立場はちがいますが、嘗てのプロレタリア児童文学作家たちの、文学に対する対し方に似通っているところがあります。

 文学者として単に机のうえで作品を書くだけにとどまらず、ひろく民衆のなかにはいりこんで、人びとの幸福のための社会的実践を遂行しなければじっとしていられない情熱も、ひどく相通ずるものです。

 これは本来の仏教が、上求菩提という仏に対する激しい傾倒に終らず、かならず下化衆生という実践を伴っていたためでもあります。
 資治は、上求菩提と下化衆生という二つのものを、二つの側面とは考えず、文学の中に統一しながら、三十八歳の短い生涯を生きぬきました。あるときには、

  まことのことばはうしなはれ
  雲はちぎれて空をとぶ
  ああかがやきの四月の底を
  はぎしり燃えてゆきする
  おれはひとりの修羅なのだ

 こういう悲歎に暮れながらも「まことみんなの幸福の世界」に到達する「たった一まいの切符」−法華経に信順し、修行者としての一生を貫きました。

 わたしのように、賢治の自己の捉え方に、なかなか、なじめないものにも、また絶対他力を信ずるものにも、批判を超えて働きかける力をもった賢治の文学。これはやはり、これからも殆んど出ないと思われるくらいの痛烈な聖道門風の聖者、・・賢治が文学者であるまえに、はげしい求道者であったからでしよう。