信太妻伝説の深層
林 耕二(大阪民衆史研究会会員)
信太妻伝説の要素
「信太妻」は、鎌倉時代から江戸時代にかけてさかんにおこなわれた「語り物」の芸能である「説経(節)」にはじまり江戸時代以後、浄瑠璃と歌舞伎でさかんに演じられました。古浄瑠璃では山本角太夫正本「しのだづま」(1678)などが、また現在も人形浄瑠璃や歌舞伎で演じられている竹田出雲作「蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」などが広く知られています。
各台本によって「信太妻」(または「葛の葉」)のストーリーは、少しづつ異なりますが、基本的には3つの要素、(1)舞台としての「信太の森」、(2)狐が変化した女と人間の男(安倍保名)との結婚の物語(異類婚姻説話)、(3)陰陽師安倍晴明の誕生説話からなると考えられます。
ハイブリッドの形成神話―「異類婚姻説話」
物語前半の狐と人間が結婚する話は、「異類婚姻説話」のひとつのパターンとして、世界的に分布するものです。『日本霊異記』の「美濃国の狐の直の話」には人間と結婚した狐の女が男に子供を残して去るが、その子供は狐の子供なので力が強く、走ることも鳥が飛ぶ如く速かったということが描かれています。古代朝鮮の王の始祖を物語る『檀君(だんくん)神話』では、天帝の子が人間界に天下り熊の女と結婚し檀君(朝鮮最古の王)が誕生することになっています。モンゴル帝国を築いたチンギスハンの先祖アラン姫は牝の鹿と牡の狼の子孫とされています。シベリアのゴルデイ人のシャーマン(霊力をもって占いや病気の治療をおこなう人)は、狼や老婆、虎に姿を変える女性の精霊と結婚し、秘密の教えを受けてシャーマンの能力を身につけるといわれます。
これらの例からも、「異類婚姻説話」はシャーマンや超能力者、王の先祖の生誕とのむすびつきを示す説話と考えられます。「信太妻」においても平安時代に実在した天皇直属の陰陽師である安倍晴明が狐を母として出生したことと陰陽師として超能力を発揮する活躍を描いています。ミルチア・エリアーデ(宗教学者)は「一人の息子を与えた後、人間の夫のもとを去る妖精の妻というモチーフは、世界的に伝播しているものである。この夫がその妖精をさがしに行くエピソードはときとしてイニシエーションのシナリオを反映する(例えば天界への上昇、冥界への下降、など)。」と書いています(『シャーマニズム』)。動物または妖精と交流することの意味は、異界との触れあいを意味し、その中で常人にない能力、現世と異界を交流する能力を獲得することを意味したのです。いわば動物と人間とのハイブリッドの形成です。しかし後に身分制度が確立された社会や都市化された社会が物語に投影されて狐の化けた女は卑下される対象となってきたように思われます。狐の正体を知られた女が子供を残して去る「子別れ」の場面は浄瑠璃、歌舞伎の最大の山場ですが、身分制社会で暮らす人間の実際の葛藤が物語に投影されたのです。今回、クラルテの人形劇はこの物語にどのような現代を表現するのでしょうか。
晴明の実像と虚像―「安倍晴明説話」
物語後半は安倍晴明の誕生と陰陽師としての活躍を描いています。 安倍晴明は平安時代の10世紀後半から11世紀はじめ頃に活躍した高名な陰陽師(おんみょうじ)です。日本に陰陽道(おんみょうどう)が導入された時期は六~七世紀の頃、中国で発生した道教の諸要素が選択されて、陰陽説、五行説、易、暦などが導入されて成立したと思われます。朝廷の役所である陰陽寮が成立するのは七世紀の天武天皇の頃です。安倍晴明はその陰陽寮に仕えた国家公務員としての「占い師」でした。陰陽寮は陰陽部門(ト占)、暦部門(暦制作)、天文部門(天体・気象観測)、漏刻部門(時間の計測)の各部門の専門家と指揮統括部門(陰陽頭以下四等官)で構成されています。晴明の所属した天文博士は天体・気象観測を行い、異変があれば天皇に報告する仕事でした。
安倍氏の系図(尊卑分脈)では右大臣安倍御主人(みうし)にはじまり晴明は九代目にあたります。浄瑠璃台本にある阿部仲麻呂の子孫という話はフィクションと思われます。
晴明は長徳元(995)年に「蔵人所陰陽師(天皇直属の陰陽師)」、長保二(1000)年に従四位下、左京権大夫(左京副長官)と順調に出世の階段をあゆんで、没年は寛弘2(1005)年冬とされています(享年85才)。その評判は高く、「道の傑出者」「陰陽ノ達者ナリ」などと書かれています(藤原行成日記『権記(ごんき)』)。一方晴明のライバル蘆屋道満の出身は多くの陰陽師を輩出している播磨の国(兵庫県)で、加古川市には「道満屋敷跡」があって、京都に出世して出ていった道満に腹をたてた識神(しきがみ)が暴れたという伝承が残り、地元では道満を尊敬する意識も残っているそうです。
晴明については平安時代以後、いくつもの説話がつくられていきます。さらに時代がくだるにつれて晴明は神格化されてゆきます。「今昔物語」(平安末期の説話集)では、晴明が若い頃、賀茂忠行の牛車の後ろに付き従っていて鬼神がやってくるのを見抜き、忠行から見込まれて陰陽道技術をすべてさずけられたことが書かれています(第十六「安倍晴明、忠行にしたがいて道を習うこと」)。このような晴明説話は、土御門家(つちみかどけ、晴明の子孫)が陰陽寮の長官として権勢をもち、全国の陰陽師を支配するために、晴明と陰陽道を宣伝する手段として利用されたと考えられます。
舞台としての信太の森と舞大夫、説経
物語の舞台となった信太の森は、中世にさかんにおこなわれた熊野詣でに利用された熊野街道(小栗街道)がふもとを通っています。枕草子にも紹介された「信太の森」は日本の代表的な森でした。森のふもと熊野街道にそって現在の和泉市舞町に江戸時代まで舞村という村がありました。舞という名前は、そこに住んでいた舞大夫という人に由来します。舞大夫は、信太明神(聖神社)に舞を奉納し、土御門家からさずかる暦を神社の檀家に配布して、うらないやおはらいなどの陰陽師としての仕事をしていました。一方熊野街道付近には「信太妻」や「小栗判官」などの説経を語る人々もいました。そこで陰陽師である舞大夫と説経を語る人々との間に交流があったことが考えられます。地元には晴明説話の登場しない、浄瑠璃などの内容と異なる伝承があります。江戸時代に岸和田藩領内の熊取の庄屋をしていた中盛彬は当時すでによく知られていた浄瑠璃の蘆屋道満大内鑑の内容に対して、この物語こそが真説としています。太古の異類婚姻説話を母胎とする原型的な物語があり、それをもとにして、説経と舞大夫(陰陽師)の出会う信太の森のふもとで現在よく知られるような物語が生まれてきたかもしれません。
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