『きつねライネケ』の五百年
源流・発展・日本への移植〜
八 木   浩(大阪外国語大学教授)

 クラルテは近松の大作や東西の童話劇や現代日本の作品にとりくみ、こころのこもった人形劇を創造してきたが、今回一飛びにドイツヘゲーテの叙事詩『きつね・ライネケ』を吉田清治さんの手で作劇し、これを地球の反対側のわたしたちに見せてくれることとなった。日本でも珍しい、ゲーテ没後150年を記念する催しである。クラルテの近松が生きているように、クラルテのゲーテも生きてほしいものだ。日本の、また世界の人形劇へ、さらに世界文学の叙事的形姿の人形劇化へ、大阪の文化がひとまわり大きく育つようにと念願しての試みである。ドイツ文化センターの援助にとっても、これは有意義なことになるだろう。

 そこで『きつねライネケの五百年』と題してみたが、これはもっともっと古い起源のもので、古代インドに起源するとか、イソップによるところもあるとか、北欧民間説話にも出るとかよくいわれるように、このラインケ動物叙事詩圏には多くの動物説話が含まれており、それらが次第に狐を中心に統一されてこの物語にまとめられたらしい。それはドイツ、オランダ、ベルギー、北フランスにひろがっていて、7世紀にもフレデガル作のものがフランケンにみいだされる。13世紀中葉の『ラナエルト狐』になるともう今日の作品とほぼにた輪郭をそなえている。そしてそれが1498年リユーベック刊の『きつねラインケ』につづく。この500年前の低地ドイツ語の作品が最も有名なもので、ゲーテは300年昔のこの源流にさかのぼり、1793年、今から200年ほど前に、先輩のゴットシエット刊の低地独語散文を改作し、十二歌よりなるギリシャの伝統的な叙事詩形ヘクサメター(ギリシャから学んできた叙事詩のリズム)にまとめあげたのである。

 これはしかし決っしてただの翻案ではない。千年の長い歴史にみられるラインケは、その時代時代の引き継ぐ力、受容に根源がある。そのようなたくましい受容の頂点は、中世から近世へ変っていく時代、宗教改革と農民戦争の時代にみとめられる。イタリヤよりは、かなりおくれて、日本よりは一足さきに市民階級が成立したこの15、16世紀ドイツでは、ファウストやティル・オイレンシュピーゲルのようなたくましい民衆本、ブラントの阿呆船やエラスムスの痴愚神礼賛のょうな人文主義文学、ザックスの民衆的な謝肉祭劇、ルターの教会歌や動物寓話、デューラーたちの版画など、多様な芸術の方法が花を開いていた。

 このような偉大な時代の完成作である先述のリューベック版(1498年)でも、狡猾で機智に富むライネケは、狸や猿を味方にして兎や熊やにわとりなどの動物に悪事を重ね、ついに宿敵狼を決闘でたおし、宰相となる。しかしさらにここでは、狐が精細に、リアルに、人間絵巻のようにくりひろげられるに比し、他の動物はシンプルで、動物らしく単純である。双方の葛藤からつきないおもしろさが生じている。ずるがしこさとシンプルさから教えられることは、単純でも、図式的でもなく、すこぶる弁証法的である。失敗は二度くり返される。使いに出る熊も牡猫もひどいめにあう。おいつめられた狐も二度大ペテンできりぬける。狐と狼の決闘だって一本調子ではないのである。ラインケの術と徳がたたえられるあたりは、虚実の紙一重の緊迫を示して、おもしろさもひしおである。構成は四部、停滞をくり返して進む四幕のドラマを思わせる。ラインケが捕えられて王をだます第一部、ざんげしてローマにいくようにみせかけて悪行にふける第二部、狼を挑撥する第三部、決闘に勝って美徳輝く狐を語る第四部のどこにもすきがみられない。

 プレヒトの『三文オペラ』にもにた現代性がうかがわれる。メッキーも絞首台上で救われて貴族に列っせられる。ジョン・ゲイのこの素材ににているのが同じくエリザベス朝の劇作家ペン・ジョンソンの『ヴォルポーネ』という名の狐であろう。近松と同時代のイギリスのドラマは近松の中の悪者にどこか似ている。こういう時代をくぐりながら、ライネケはヨーロッパに受容され続けたのだろう。


 18世妃ドイツはこの英国のあとを追う啓蒙主義の時代である。ゴットシェットが『きつねライネケ』を出版し、ヘルダーがゲーテにこの作品を生かすようにすすめた。レッシングにも動物寓話や動物寓話論がある。ゲーテは16才のとき妹にライネケが面白いと書いている。一七八三年にはその銅版画を入手して喜んでいる。92年からゲーテに立ちはだかったフランス革命に干渉する戦争の不快感の中から、どのようにしてゲーテの『きつねライネケ』がまれたかについては芳原先生の解説をみていただきたい。

 ゲーテを魅惑したのは、わくぶちつきの、ゆたかなエピソードをつつむハンドルングの最高度の統一、何かを動物で寓意するよりは動物そのものが楽しく書かれて象徴的である点、熊の力より狐の外交、狼の勇猛より狐の策略、敗者の敗因としての愚かさと誘惑されやすさ、王様や裁判官の不公正な御都合主義などにみるリアリティ、愉快でかつペシミズムを漂わせる雰囲気・・これらをたいせつに移植しようとするのが、ワイマルの古典主義者ゲーテなのである。

 これを政治的リアリズムといってよいだろう。この世を治めている者はこういう者たちなんだという経験にやはり基づいているが、大言壮語はしない。ヘルダーリンやハイネのようにまっすぐにしるしはしない。原作に大筋も細部も忠実で、大きな変化を避け、古いいい廻しを尊重し、ただひたすらにゲーテのすばらしい言葉によるヘクサメターに書きかえていく。

 もちろん新しい時代のユーモアも軽快なゲーテの新鮮な言葉のうらにひそんでいるが、その仕事ぶりは今日からみるとあまりにもつつましい。フランス革命後200年以上たった今日、もっと大胆に今日の視点を入れて、大阪の吉田さんが思い切った移植を試みられることと大いに期待しよう。