「散るは桜の花のみか」
吉永孝雄
(大阪経済法料大学教授)

 何とロマンチックな外題でしょう。説経の「あいごの若」がパッと目が覚めるように新しくなりました。さて送られて来た「クラルテニュース」にあいごの若の原本の挿絵が載っています。主人公が継母の讒言で父に桜の木に縛り釣り下げられ、その縄をいたちが喰切る童話の挿絵のような絵です。

 子供が授かったら、自分の命が三年の内にとられてもいいと約束したのに、子供が十三才になっても何もない。仏様のお言葉も当てにならないと蔭口を言ったため地獄に陥ちた母が、ひたすら我が子を助けたい一心からいたちとまでなったのです。

 この作品は継母の継子に対する邪恋、讒言、主人公の世をはかなんでの滝への投身、継母の処分、父を始め百八人の後追い投身、主人公が山王大権現として祭られる本地物等、説経節の特色を遺憾なく発揮しています。

 「説経」はどの作品を読んでも哀れな話が書かれ、終始悲哀な情調にみちていますが、人の魂をゆさぶる劇的な展開を見せません。事件を並べる説明的な詞章から出来ています。

 これは以前クラルテが上演された「小栗判官」でも、「安寿と厨子王」で有名な「山椒太夫」でも、高野山で父と再会する石童丸で有名な「苅萱」でも皆同じことです。

 あまりにも単純明快すぎてお話としてならとにかく、ドラマとしては後世の人には通用しない。しかし、ドラマになる要素に充ちています。例えば「俊徳丸」は後の「摂洲合邦辻」の若い後家の玉手御前が我が子俊徳丸に激しい邪恋をするので(これは実は我が子を悪人の手から救う一つの手段であったとするのだが)父、合邦が堪りかねて殺すという場面に見事に生かされています。

 クラルテが一つの目標として近松物に体当りして来られたことを、五十年文楽の舞台を楽しんで来た私は誰よりもその成功を祈って止まない者ですが、文楽は太夫、人形、三味線の三者の綜合で成り立つ舞台芸術で、クラルテには、文楽の命ともなっている太夫、三味線の浄瑠璃もないし、その上文楽のように莫大な国の援動資金もないので、文楽と同じ作品に真向から挑戦して、文楽ファンをあっと言わせることは至難のわざでしょう。

 勿論、はじめて見た時はアレツと目を驚かすものはあっても、人形遣いの説明的なセリフでは何だか物足りず心に染み入りません。

 これは無理もないことです。文楽の太夫のように同じ作品を何十年に亘って何千回となく猛稽古しているのでないから。この意味でクラルテが人形浄瑠璃が竹本座、豊竹座という劇場を持つ以前の説経劇に題材を見付けられたのは炯眼と言えます。あのクラルテのグロテスクな人形では我々の日常生活の苦しみと喜びを沁々と味わせるということや、人間の微妙な心理を描くことは少々無理ではないかと思います。近松を一旦離れて宗教劇として説経節によつて語られ、素朴な人形を操って来た「説経」という作品に目を付けられたことに双手をあげて賛成したい。

 どうか五説経をはじめ旧い世界から新しいものを堀り出して貰いたいと切に祈ります。

(吉丸氏は1992年12月にご逝去されました)