近松人形芝居その二
「出世景清」批評から
「演劇界」9月号
 三つの話題から

 大阪の人形劇団クラルテの久々の東京公演である。今回は昨年度の大阪府民劇場奨勧賞を受賞した近松の「出世景清」。この作品はこゝ五十年近く文楽も歌舞伎も手をつけずにいる大作だけに、その上演は意義深い。吉田清治の脚色は、原作にはない序幕と終幕をつけ加え、序幕で盲目の琵琶法師を登場させている。つまり琵琶による弾き語りを浄瑠璃の代りのように用いるという意欲的な試みだが、とにかく人形が素晴らしい。深いかげりのある人形の頭が、照明などの微妙な変化によって、時には気味の悪い程見ている者にせまり、時にはまるで血の通っているような哀愁を漂わせる。文楽の頭とはまた違った、古典的な素朴な味わいであり、人形を見ているだけで、一種独特の世界に引きずりこまれる。
 たゞ琵琶の弾き語りがナマでなかったことが語りそのもの、性格を弱めている。感覚的なものかもしれないが、弾き語りの世界と人形の世界とが、それぞれに孤立して存在しているようで、全体的にちぐはぐな感じをうけ、迫力と芝居自体の安定感に欠ける面もある。しかし現代の人形劇で、これ程までに古典の世界を再現しうるクラルテには、これからの舞台が楽しみである。
   ・・俳優座劇場・・(俊寛僧都)


東京公演−批評
*表現力の見事さに感心*

 人形劇を初めて観た、黒一色の舞台の中で、黒装束の人形づかいが人形を操っていくのは、見慣れないせいもあって、最初はなじめなかった。しかし、いつしか人形の世界にひきこまれていって、人間の演技ではできないような表現力の見事さに感心してしまった。荒けずりで誇張した人形の表情も、芝居のクライマックスには見事な説得力を示していた。琵琶法師の語りの意味はよくわからなかったが、人形づかいの話すセリフは、人形の動きと一体制があって、さすがだと思った。
(三鷹市・男・?才・東寮労演会員)


一所ドキリとさせられた舞台


 ごく一般的な人形劇を見るつもりで出かけたのに、始めから琵琶法師は難解であり、最後まで理解できずに耳に残った。景清なる人物、千手観音まで身代りになってくれた立派な人物であるはずなのに、阿古屋という子ども二人まである妻がありながら、小野姫と夫婦約束とはどうゆう訳か? その上、阿古屋の兄が景清を売った事まで阿古屋を責め、母子心中に追いやる結果となる。なぜ、景清が責められないめだろうか? これは時代的背景なのか、それとも作者の意図なのか。女としてはどうも疑問が残る。千手観音が景清の身代りになる所、両目をえぐり取る所等、見ていて一瞬ドキクとさせられた。
(東京労演・西部地域・女・T)


*楽しめた近松物*

 阿古屋の葛藤をもう少し鮮明にしてよいのではないでしょうか、琵琶法師と景清の伝承を取り入れて、両者を一体化したのは面白いと思います。但し、法師の語りのテープの音が高すぎ、肉声のせりふとの関係を再考した方がいいように思います。ラストの蛍の飛び交ぅ効果は美しいものですね、近松物楽しめました。(目黒区・女・26才)



よみがえる古典!

 ふるきものの見事な構成に今さらおどろいております。今様と琵琶をうまく生かしたすばらしい舞台、関西で培われた感覚がなければこれは出来なかったであろうと思います。しかもカーテンコールの所の皆様がお若いようでおどろきました。琵琶法師、阿古屋のあやつりはまことに情感があふれておりました。こゝにいたるさまざまのお楽しみが見たものたちへの感動となって伝ってまいりました。台本は美しい言葉のあやとなってまいります。日本語がこんなに美しかったかと思いました。
 道具、バック絵にもう少し格調がほしい。もっと抽象的でよいのではないかと思いました。パネルの格子が大きすぎる。京にいたるまでの絵はいらない。船の下の波がしらが割れない方がいい。ぬき出した目玉が怪物的すぎる。そんなことを考えながら見ました。とにかく現代によみがえる古典への意欲的なとりくみに讃辞を惜しみません。どうぞ再びすばらしい舞台を見せて下さい。
 (東京・読み人知らず・女)


聞かせる文楽への接近
大阪読売新聞

 近松浄るり(時代物)め現代人形劇化だ。現代の人形劇は見せる芝居だが、この古典と取り組む手だてとして脚色の吉田清治はまず目を失った老琵琶法師を設定。その弾き語り(作曲・演奏=柴田旭堂、語り=竹本旭将)をドラマのリーダー役にして、通がいうところの 〃聞かせる文楽”に大きく近づけた。しかも法師には主人公のなれの果てをイメージ化、源平盛衰の時代色をきわだたせて優れた着想となっている。
 「地獄じや。人と人とが殺し合い、だまし、裏切り、恐れ、うらろ、憎しみ合う……」と開幕に老女がつぶやくように、平家没落後の暗黒時代が背景。落人詮議(せんぎ)の目をくぐり、源頼朝の命をねらう上総悪七兵衛景清のすさまじい怨(おん)念劇で、老女の言葉通りに物語は展開され、二人妻への情念が彼の運命を狂わしていく。二人の子供をもうけた遊女・阿古屋のしっとから景清は訴人され、落ちのびたものの、愛人・小野姫父娘が火あぶりの刑になると知って自首、六汲羅に捕えられる。ここまでの筋立てはメロドラマ調だが、その後の地獄絵図が波乱に富んで面白い。
 景清の牢の前で阿古屋が罪ほろぼしだと母子心中し、天下の大事と頼朝は景清を打ち首にするが、さらし首は不思議なことに清水寺の観音像の首と入れかわり、なおも生き続けるため、景清殺しをあきらめ、身ごもる小野姫と、そめ父を身代わりに処刑しようとする。生まれくる子まで奪われることを恐れた景清は、父娘の命ごいと、うらみを捨てた証(あかし)に自ら両眼をえぐりとる。しかし頼朝は平家ゆかりの男子を根絶やしにし、景清を追放する。終幕、目を失い、ボロ着に包まれて弾き語る法師の姿に、不毛な戦乱の時代の怨念が結実している。
 しかし、上畑裕俊の演出には大きな疑問点がある。母子心中の場で、目撃する景清をうしろ姿にしていることだ。荒けずりの木彫りマスク一つの人形で心理描写はむずかしいが、これは逃げ手。ずるいし、肝心な個所で男女の情念がわかりにくい。(邑)