「関八州繋馬」と将門伝説
鷲尾 星児
(芸能研究家・国立劇場)


 近松の絶筆となった「関八州繋馬」は、「心中宵庚申」の二年後に、長い空白期間をやぶって発表された。体の不調を訴えたりして作品も世に問わなかった近松だが、この浄瑠璃は気力にみち、舞台面の演出効果もよく考慮している。からくりなども駆使して観客の目を楽しませたことであろう。

 「繋馬」は、関東の風雲児、平将門が用いていた旗印である。この題名からもわかるように将門の世界をとりいれているが、活躍するのはその遺児の将軍太郎良門と小蝶の兄妹である。それにたちむかうのは、史実では一時代あとに登場してくるはずの源頼光と四天王という古浄瑠璃ではおなじみの武者たちである。

 享保九年(一七二四)正月、大阪の竹本座初演。五段構成の時代物である。初段では、御所を毎夜さわがせる妖怪の黒馬を頼光が射とめてみると、将門の繋馬の旗指物が見つかる。まさに将門の怨念が不気味な兆候をあらわしはしめていたのだ。

 歴史上、将門が活躍したのは平安時代中期のこと。地方に土着した貴種の後裔たちは豪族化していったが、将門もその一人。一族の領土争いに端を発し、将門は彼をおびやかすものを撃破、軍事力を充実していった。各地では国司の暴政が目にあまり、彼はそれを黙視できずに武蔵、常陸の国府へ武力介入、解決の道をひらこうとした。民衆には義快の行動としてむかえられ、一躍、男をあげた彼は勢いにのって坂東八国を制圧、巫女の神託をうけて新皇と称するまでになった。東国の変を聞いた・中央官界は、愕然としてただちにあらゆる対策の手をうった。将門を殺した者には官位を授けるという好餌に、北関東の雄、藤原秀郷がすぐに行動をおこし、平貞盛とともに将門の虚をついた。九四〇年、さすがの将門も無念の敗死をとげるのだった。

 逆賊の烙印をおされた将門だが、そのころ書かれた「将門記」は、彼に対して、その心情を汲みとろうとしている。また、関東各地には逆賊にもかかわらず将門の塚や社祠がいまも各所に見出される。東京の中心、大手町のビルの谷間には将門の首塚がいまも残っている。神田祭で知られる東京の神田明神(いまは神田神社)は、かつてこの首塚のところにあり、江戸時代に入るとすぐに遷座されたのだ。将門は御霊神として祀られており、義侠の行動は江戸っ子の心意気ともなっている。御霊信仰として将門を祀る神社は関東各地にあり、伝説も各土地に残っている。東京でも、郊外の奥多摩にまで伝説の地はひろがっている。

 将門伝説では、七人の影武者の話とかいろいろあるが、首に関する話が多いのも一つの特色である。京都でさらされた首級が、ものすごい形相で「骸(むくろ)をつけていま一戦・・・」とさけんだという伝説もある。「関八州繋馬」では、良門の危機というとき、妹・小蝶の骸に髑髏(どくろ)がよると、「生けるが如き形となってむっくと起き」、兄を助けるや首と体が離れてくずれてしまう。これも将門伝説からきたものであろう。

 茨城県岩井市には将門の遺跡が多い。将門の拠点となった土地だから当然である。上岩井の国王神社には木彫の将門坐像が御神体としてまつられている。これは将門の娘の如蔵尼が父の冥福を祈って作ったものと伝ぇられている。近松作品に登場する小蝶は源頼信へのひたむきな恋から仇をうつのも忘れ、頼信の婚姻をさまたげようとする。近松は小蝶の悲しい邪念を生き生きと措いている。死後、執念は土蜘蛛となって猛威をふるう。この小蝶の陰謀で、頼信の弟、頼平に体を許してしまい苦難の道を歩む詠歌の前の忍従の姿は対照的である。頼平の乳兄弟、箕田次郎が主の身代りとなって死ぬ第三段をはじめ、この時代物は人間味にあふれている。頼光伝説も豊かにおりこみ、男女の諸相をなまなましく描いた本作は枯淡とは縁が遠い。奇しくも鶴屋南北の絶筆「金幣猿島郡」も近松と同じ世界をとりあつかって精力があふれている。