現代人形劇の近松
安部 好一(演劇評論家)

 昨年の『女殺油地獄』の再演は、クラルテの成熟ぶりを実感させた。それは技術的なことではなくて、世のなかをとらえる目の深まりというようなことである。

 初演のときは、主人公の与兵衛にばかりスポットが当たっていたような印象が残っているが、再演では彼をとりまく人物や状況もていねいに描かれていて、義理と情とののっぴきならない相剋が悲劇の因であったということを幅広い視野からつかみだしていた。近松はこんなに面白い人間や状況を描いていたのか、と私が感心したのは実は再演の時だった。与兵衛をとりまく小悪党の面々のピカレスクな面白さは、その一例である。

 この作品の異様なまでの深さは、あの最後に殺されるの
が豊島屋のお吉であったという予想外の事実から生まれている。与兵衛に対して終始親切で、彼をわが弟のようにかわいがっていたのはお吉である。まだ幼い二人の子供をかかえてもいる。このドラマのなかで、誰かが殺されなければならないとしても、彼女だけは最後までそんなむごい目にあわせたくない、と誰しも思うだろう。観客にとって最も殺されてはならないはずの人間が彼女なのだ。それを近松は殺した。近松の作家精神があえて殺した。観客は異様なショックを受けながらも、人間の生みだす社会の不条理性に戦慄するのである。

 この点でも、再演では人間のしがらみや絆を丹念に描くことによって、不条理性が単に主人公の人間的欠陥から生みだされたのではなく、人の世が生みだしたものであることを明らかにした。『女殺油地獄』という作品に即して言えば、初演から再演までの十四年という歳月に、右のようなクラルテの成熟があった。

 クラルテによる近松の上演は、今回で早くも十作目だそうだ。ふりかえって見ると、時代物、世話物といろいろに楽しませてもらったものである。ごく大雑把な印象では、世話物よりも時代物のほうが世評は高かったように思うがどうだろうか。あるいはこの思い込みには、『出世景清』の圧倒的な面白さが影響しているかもしれない。

 だが、そのような世評にも理由がないわけではあるまい。現代の三人遣いによる文楽の繊細巧緻な芸を見ていると、世話物的表現は文楽にかぎるように思ってしまうのであろう。それはそれで理由のあることではあるが、近松について言えば、彼の時代は一人遣いの時代であったことも忘れてはなるまい。私たちが今日見ている現代人形劇による近松は異端でもなんでもなくて、作者その人が見ていた人形芝居にきわめて近い形式なのである。

 私個人は現代人形劇が日本古典に取り組むとき、そこにのずと批評性や風刺性が強く現れることに興味をおぼえている。それがどこから生まれるのか、私にはまだうまく説明できそうにないが、あの人形のデフォルメされた表情や直線的な動き、叙事的な語りなどのもたらす効果であろうと思う。現代人形劇は異化効果に富んでいる。

 その一方で、現代人形劇はバロック的である。その舞台の上の世界は自由に奔放に、変転するほうがだんぜん面白い。これも何故そうなのか、うまく説明できない。恐らく人形の造形や動作、叙述形式などに理由があると思われるのだが、私のささやかな観劇経験から見てもそれは言いうる。あのスティーブンスンの小説の劇化が現代人形劇の手にかかると、たちまち一種の椅談としてバロック的な生気にあふれるのを目撃した。

 いま演劇は、まぎれもなくバロックの時代であろ。現代人形劇はその大きな流れに棹さしている。クラルテによる近松の上演は、いまになって思うと、近松のバロック的見直しといウ意外な一面をふくんでいたと言える。始めは劇団員にも自信はなかったろうし、周囲も懐疑的だったから、どこまで近松に迫れるかというのが唯一の関心事であったろうが、不敵な言い方をすると近松がどこまで現代人形劇に耐えられたかという問題でもあったわけだ。別に難しい言い方をしなくても、クラルテの舞台で始めて近松の面白さを知った人がないとは言えまい。

 だが、そういうこともすべて、今回の『国性爺合戦』で答が出てくるだろう。いろいろな意味でこれほど現代人形劇に向いた作品も珍しいと思う。クラルテとしても近松にかかわってからの十五年間の仕上げである。