解説 |
おなつ・清十郎五十年忌は、宝永六年正月二日から竹本座で初演された。この浄瑠璃は、実際に起こった事件をもとに、清十郎が刑死して五十年忌に上演されたといわれる。この事件の実説は松村操の「実事譚」(明治十五年刊)によると、姫路の旅籠屋但馬屋某の娘おなつが手代の清十郎としめしあわせ駈落しようと船に乗るところを捕えられた。その折、但馬屋で金子が紛失し、その嫌疑が清十郎にかゝり、さらに主人の娘をかどわかした罪も加って死刑となった。おなつは悲しみのあまり一時発狂し、やがて正気にもどったものの世間の悪評高く聟にくるものもなく茶店を出して七十余才まで生きていたという。この実説をもとに、いち早く小説にしたのが井原西鶴の「好色五人女」(貞享三年春板)で、第一話を飾った。近松は実説と西鶴の「好色五人女」を素材に、五十年忌歌念仏を書いたといわれている。歌舞伎では享保四年に京都の早雲長太夫座で「おなつ・清十郎飾磨掲布染」が初めてとされ、これは五十年忌歌念仏と同一の筋で浄瑠璃の文句がそのまゝ筋書本に用いられている。人形芝居の方では、近松原作の初演以後、享保十六年 豊竹座で「和泉国浮名溜池」(並木宗助、安田蛙文作)、安永七年北堀江座で「夏浴衣清十郎染」(菅専助、豊春助作)と改作上演されているが、近松の原作から遠去かり、終いはその片鱗もとどめていない。現在の文楽人形浄瑠璃でも戦後、桐竹紋十郎によって五十年忌歌念仏の道行だけが復活上演されただけで、未上演の一つになっている。クラルテの今回の上演は、宝永六年正月以来のはじめての復活上演ということになろう。 |
物語
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![]() おなつの嫁入り仕度をととのえた但馬屋では、嫁入蚊帳の祝いの日でした。清十郎と共に大阪からもどった勘十郎は、左治右衝門の証文を種に清十郎を罪人におとし入れるのでした。一方、この嫁入りに気の進まぬおなつは、恋しい清十郎に祝いの蚊帳の中で身を任せるのでした。主人九左衛門は、その現場を押え、証文を証拠に親と共謀して主家をくつがえす罪人として清十郎に暇を出すのでした。 清十郎はその夜のうちに、勘十郎に怨みの刀を報いるつもりで主家に立ち返り、誤って相手代源十郎を刺し、そのまま出奔してしまいます。おなつもその後を慕って家を出てさまよううちに、ついに狂乱となります。 お俊とおさんは出奔した清十郎の行方を尋ねるため歌比丘尼に身をやつし、たずね歩くうちに狂乱のおなつに出会います。そこへ、長崎でとらわれ、松蔭の竹垣で七日さらした上処刑されるという清十郎がひきまわされてきます。お俊とおさんはおなつと同じ嘆き、同じ悲しみのうちに処刑の場へおもむきます。 清十郎はおなつに気がつくと最後の煙草を所望し、おなつはきせるにつけた煙草をさし出します。清十郎はそのきせるで咽を貫いて自害します。但馬屋一家の者が呼び出され詮議が行なわれます。父親左治右衛門もかけつけ、勘十郎の悪企みも露見し、引き立てられてゆきます。自害しょうとしたおなつは引止められ、出家して清十郎の菩提を弔ぅのでした。 |