文楽とお夏清十郎劇
吉永 孝雄 |
クラルテが近松門左衛門ソリーズ「女殺油地獄」「出世景清」「平家女護島」に続く第四作として「五十年忌歌念仏」を取上げられたことに因んで、本家の文楽のお夏清十郎劇についてその上演史を辿って見よう。 近松の「五十年忌歌念仏」はお夏・清十郎の事件のあった寛文元年(一六六一)から五十年目の宝永六年(一七〇九)正月竹本座で上演されたもので、「歌念仏」という外題は下巻道行に清十郎の嫁と妹とが歌比丘尼となって姫路にやって来る一齣から名付けられた。 〔清十郎の処刑されたのは万治三年(一六六〇)〔中興世話早見〕とも寛文元年(一六六一)寛文七年出版の「七回忌清十郎追善やっこ俳諧」とも寛文二年(一六六二)〔実事譚〕とも伝えられている〕その実説と言われるものは
西鶴の「好色五人女」のお夏清十郎も大体同じ筋であるが但馬屋九左衛門はお夏の兄となっている。私の珍蔵している西沢一風の「乱脛三本鑓」(享保三年刊、一七一八)にはお夏は醜女であったと片山の茶店でお夏に逢った人の話を書いているがこれでは芝居にならない。 上巻 「川口渡船場」の道頓掘の芝居の賑い、東横掘に出る十文色(パンパン)の噂 中巻 「但馬屋」の蚊帳の祝儀、清十郎にお夏が「あのかやの開眼をせいか」と誘う二人が密会する濃艶な場面、手代がこのシーンを見ての呆れ顔、「八百屋お七歌祭文」のお七にも上越す激しい恋に燃えるお夏の姿態、下巻の「お夏笠物狂ひ」の中に出て来る当時の流行唄、 所が意外なことには現在文楽座では「五十年忌歌念仏」はやっと昭和卅六年に「道行笠物狂ひ」だけが紋十郎によって上演されているだけで、初演以来二百五十年間その全篇は上演されていない。唯改作としては享保十六年(一七三一)豊竹座で上演された並木宗輔、安田蛙文作「和泉国浮名溜池」 安永七年北掘江座で上演された菅専助らの「夏浴衣清十郎染」 文政三年稲荷境内の小屋で上演された「寿連理の松」があり、後者は作者未詳であるが専助の作の増補改訂と思われ、こめ「寿連理の松」の湊町の段がかろうじて今日も舞台生命を保っている。 しかし、こゝにはもう有名なお夏清十郎の唄もなければ、お夏の激しい恋の情熱も見られず、主役の義理の立てあいと脇役の小細工の演技が目に立ち、一切がめでたしで終る。因みにこの「寿連理の松」は江戸帰りの豊竹時太夫のお目見得狂言でおなつは吉円辰五郎、清十郎は吉田兵吉、清十郎の父佐次兵衛は吉田九孝、お夏の父徳右ヱ門は吉田千四であった。まず荒筋を話そぅ。姫路の米問屋但馬屋徳右ヱ門の息子徳次郎は大阪島の内の芸子小半に馴染んで、泉州湊の古手屋佐治兵ヱの家に駈落して匿れている。佐治兵ヱの息子清十郎は徳次郎の家に手代となって奉公中、娘のお夏と関係して、暇を出され実家に帰っていたが、主人の息子の徳次郎のために小半を落籍しょうと苦心し、許娘の養女お梅と祝言して、お梅を苦界に沈めてその身の代金で徳次郎を救おうとしたが、お梅は早くもこの計画を観破って、実母と計って、偽って清十郎に愛想尽かしをして養家を出、乳守の廓に身を沈めて五十両を才覚して養父の佐治兵ヱに渡す。 お夏は姫路から遥々清十郎を尋ねて来て、これを知り、恋を譲ろうとする。そこへ徳右ヱ門が来て、お梅の貞節な心に打たれて、お梅を身請けし、徳次郎は小半と、清十郎はお夏とめでたく夫婦に、お梅は清十郎の妾となって、めでたく納まるという筋で、外題の「寿連理の松」というのもこの結末に因んで付けられたものであるが、現代の若者から見れば何がめでたいと反駁される話しである。互の美しい心にほろりとするが一滴の血も見ぬ悲劇で、二組の夫婦がめでたく出来る上に、悪者の太左ヱ門までがお梅の貞節に感じて妨主になると云ぅ皆しあわせになるという物語りで、家の中を覗き込みながら十日戎の鼻歌を歌って、小半が佐治兵ヱの家に潜伏して居るのを偵察し、こっそり小半の履物を盗んで行く太右ヱ門、お梅が乳守の廓に身を売って小半の身の代金をつくるためわざと清十郎にすげなくする所、「遠山恵、雪嵐、心播磨路立出でて」のお夏の出の半中節、お夏のサワリの半太夫節、「お医者様でも神様でも惚れた病はなほりやせぬ」の名文句が見物の心をうっとりさせ喜ばせる。 |