「鯨おどり」から「女殺し」へ
「クラルテ」の一つの系譜
宇津木 秀甫
(劇作家)


 「クラルテ」 が私の作品「鯨おどり」をとりあげたのは一九六六年。(演出は吉田清治と私。翌年、大阪労音例会で、朝日座で文楽「心中天網島」と共演) これは劇団として、はじめての大人向きの公演だった。また、内容の形式で、はっきりと、民族伝統に根ざそうとしていた。
 故清水三郎(演劇評論家)はこう書いている。「土地の奉行にいじめ抜かれた堺の漁師たちが ″鯨とり″にうっぷんを晴らすという民話仕立てだが、人形劇の叙事性を民話の世界から引き出そうとする作者(宇津木秀甫) の話っぷりが、さも楽しそうであった。それに文楽の人たちの協力で、音楽はフト(太枠)一本にするというのも、こうした人形劇運動には全く初めてのことで、何やかやと ″クラルテ″ の
新しい鼓動と思ってみたりした」 − 「少々材料を盛りすぎたようで、あれもこれもと筋立てがうるさくて、反って人形劇の独自性を害っていたようである。もっと人形を生き生きと使い切ることで、劇は大きく開くはずなのだが、所詮は熟さず、もう一度ここで手直しをしてみる必要があった。幸い、その機会が早く来た。これから、労音の舞台で、うんと凝縮したものを見せることが出来るからだ」

 民話的素材による人形劇の叙事性の追及ということでは、あっさり云うてしまうと、私は、客が人形劇の舞台をみながら筋を発見するのではなくて、舞台をみながら「ああ、この筋書きのものをやってる」と人形をたのしんでみるものでなくてはならぬと考えた。そのために民話仕立てを試みた。それから、大阪の土着の味を考えてもみた。
 音楽のことは素人だが、文楽に挑戦した。フト(太棹)だけでやるというのには、義太夫つまり語り唄の要素をあくまで排除して、そういう要素は、人形自身の対話を基幹にして、人形自身が唄う民謡、民踊に依ろうとした。このへんについては、今も原則的に正しいと信じるがとにかくみんなが素人(音楽では、特に邦楽では)という中で冒険でありすぎた。
 労音の舞台でもドタバタとして「所詮は熟さず」であった。完成した大人の芸術をもとめる労音の客の前では、「天網島」 にかなうべくもなかった。私のなかに、「人形劇を定着させるには子どもから」というテーゼがひそんでいて子どもだましがあることに気づかされたし生の民謡を使いすぎるのは野暮くさかった。まあ、こういうことから出発したのだったけれども、「クラルテ」はそれ以来、一つの新しい系譜づくりにとりくんだ。それは立派という以上のものだと思う。
 指向したものを、単ににぎってはなさないだけでなく(そういう劇団もある)、こなしながら深めていく、着実な足どりには私は畏敬の念を持っている。
 子ども向きの作品にも、大人向きの作品にも、その足どりはみごとで、それは「クラルテ」のカラーとなりつつある。もっとも、時代というか社会というか、そういうものの要請であることも事実だが。
 今度はいよいよ近松にとりくみ、「油地獄」をこなすことになった。私は身ぶるいするような緊張をおぼえるのである。
 人形劇は、人形といっしよにのたうちまわっては駄目だろうと思っている。人形には限界がある。それを知って、「ハイ、ここまで」とたんたんと切りあげるとき、そこに人形劇を扱う芸術家の根性を感じさせる。それでこそおおらかな生命力がうたいあげられるのではないか。そういう根元的な問いかけもしてみたい。
 むかし、原初に、司祭者と呪術師と人形とのくみあわせからはじまったこのいとなみが、義太夫と三味線と人形という組合せで一つの開花をみせた、そういう日本の伝統のうえに立って、「クラルテ」の「油殺し」はなにをみせてくれるのだろうか。
 「近松が、死んでしまったという事実のうえに立って、心中ものをなんべんも人形のために書いたのがわかるような気がする」と吉田清治ほ胸中を語っていた。死者をとむらうかのような、鎮魂賦としての義太夫音楽を、人形が見せてくれる、義太夫を人形でみる・・・そのあたりをふんまえて、殺すものと殺されるものの絵模様を、どんなに新しくふくらませてみせてくれるのか。
 死におののき興奮する人間の極限を美化し、官能に訴える「油地獄」 − それは泰平の頽廃した世相が生んだ妖しい夢の反映だろうが、この大人の作品が冒険でなく「クラルテ」のものになるとすれば、私はいよいよ人形劇に呪縛されてしまうだろう。


「女殺油地獄」 で与兵衛が、綿屋小兵衛から借金していた銀二百匁ほ金貨に換算すると三両一分余、米が約二石八斗買え、お沢がお吉に託した銭五百は金二朱(一両の八分の一) に相当し、米約一斗分。
 お吉を殺して奪った金は銀五百八十匁で、金九両二分余、米にして約八石。