「セチュアンの善人」音楽制作メモ
一ノ瀬季生

 
 ドラマは対立する要素の葛藤をエネルギーとする。対立項は一つではなく、有り様は様々でまたそれぞれが絡み合っていたりする。「セチュアンの善人」は寓話劇であるところから対立は見掛け上極端な形で現れ、理解しやすいように思われる。

 善と悪との対立...この明確な対立をコンセプトに音楽をつくる。音楽において対立する要素は多い。フォルテとピアノ、高音と低音、アップテンポとスローテンポ、複旋律と単旋律等々、しかし「善」を心地よさとし、「悪」を不快感として置き換えた時、一般にはそれぞれの中庸こそが「善」といえる。協和音と不協和音という快・不快をすでに押し付けられたような分類があるが、音楽が時間と密接な関係があることを思えばそう単純ではない。持続する協和音は時間とともに不快に感じられるようにもなり、そこに出現する不協和音は心地よい響きとなることも。

 太陽は「善」の代表格であるが、その白色光はすべての周波数成分を含んだもの。音の分野におて同じようなエネルギー分布をもつのが実はノイズ(雑音)なのだ。

 「さわり」という所謂天然のノイズを重要な音成分とする日本の伝統楽器群だが、純音と分離してとらえられるものではなく、それは人の生と死、絶望と希望など、それぞれのなかに対立物を必ず内包しているように、善と悪を二元的に割り切ることは不可能なことを音の世界にも感じる。

 静即是動...秋風にバルカンの民族合唱を聴きながら、世界の片隅の「セチュアン」がシンボリックな宇宙そのものであることに思いを巡らせながら・・・。