近松人形芝居研究
近松を「演じる」人形
吉田 清治

 早いもので「万一失敗しても、それはそれで意味がある」といわれて、現代人形劇がはじめて近松と取り組み「女殺油地獄」を上演してから、こりもせず三本日、三年目を迎える。一作目はただ夢中であり「出世景清」をへて、もう一度時代物「平家女護島」を取りあげることとなった。現代人形劇が近松を取りあげ上演することに多くのはげましを得ていることは、近松が「人形にかかるを第一」としながら生み出していった近松の人形劇としてのイメージの見事さを証明することにほかならない。そして今、近松人形芝居その三として「平家女護島」を上演するにあたって、近松と現代人形劇、人形が「演じる」ということを不じゅうぶんであっても、整理してみたいと思う。

◇近松以前

 前二作において、まがりなりであっても、現代人形劇が、近松を上演し得たということは、その舞台で、現代人形劇の人形たちが、近松を「演じる」ことができたということである。現代人形劇が、片手使いのごく単純な演技表現をすることで見事に人形劇の世界を表現するものであったことから、近松劇が要求する直載ではあるが、人間の生きざまのよりドラマチックな表現への「演じる」ことが現代人形劇の演技アンサンブルとして可能になってきたことによるのです。

 近松の時代の少し前、つまり古浄るりの時代には、金平物と呼ばれる単純なストーリーの合戦物などが多く上演されていた。その舞台は、私たちの現代人形劇においても、つい10数年前までと同じように、人形使いは舞台の幕の中に完全に、かくれていなければならなかったのと同じようです。その頃の私たちの人形劇の稽古は、人形を使う人の頭が少しでも出ると、「頭が出た」といってしかられ、演出者は人形の演技を見るよりも頭が出るか出ないかの監視役でさえあった。

◇出使いへ

 ところが最近では、現代人形劇の多くは、手使い、糸使いを問わず、出使いが多くなっている。出使いといっても現在の文楽のように、衣裳をつけて、顔を出しての出使いではなく、黒衣姿ではあるが、舞台に身体を出し観客の目にさらしている。(私たちにとっても近松の三作共がそうです)頭が少し出てもしかられていた頃と比べると大ちがいです。なぜ、人形劇にいて、本来じやまっけな人形使いの体が舞台へ出てきたのだろうか?

 近松の時代においても、近松がはじめて書いた世話物「曽根崎心中」において、「出遣いは辰松八郎兵衛に始る此人古今の達人にて手摺を放れ無量の手段を遣ふに全身少しも乱るゝ事なし・・」と、竹豊故事に見える。また「此時近松氏新浄瑠璃出語り出づかひということはしめて思ひ付れける。」と書かれてある。それまでは太夫も人形使いもかくれていたものが、観客の前に現われる。どんな必然性があってのことか。現代人形劇においても、ほとんど同じような道すじをたどって、今、現代人形劇が歩みつづけているように思えてならない。

◇人形の構造

 日本の人形の構造の特徴として、「うなづき」の構造があげられよう。つまり、人形の頭についている胴串、その胴串についている引栓を引くと、人形の顏が上むくようになっている。ヨーロッパの人形のいくつかには、引栓を引くと人形の顔が下がり引っばるとあがる。つまり、運動が同じ方向に連動している。

 人形劇を始めて、人形を最初に持たされた人形使いは、この胴串についた引栓が、反対の動きをするのにとまどう。どうして同じ方向に動かないのかと問う。ところが日本の人形劇ではうなづきのついた構造では、みな反対の動きつまり引栓を下に引くと人形の顔が上に向くように作られている。ではなぜ、一見、混乱するような人形と構造とに定着しているのか。それは、人形使いの、演じることの連動性がこの中にある。

 人形使いが、引栓を引くということは、力を加えることです。つまり引栓を引けば、人形は顔をあげる。人形は意志を明らかにする。引栓の力を抜けば、人形の顔は、うつむいて意志をなくす。この運動としての力学的な連動ではなく、表現としての連動性の中に日本の人形の構造があることから、人形使いが人形と同じになって舞台空間に出てくることを可能にした。より積極的には、人形使いの表現をも、人形が演じるというものへつけくわえようとした。近松が出使いを思いついたかどうかは別としても、辰松八郎兵衛の人形を演じる力量と、近松の人形劇としてのイメージが、より強く人形に演じるということを要求していった結果であることにはちがいない。

◇辰松八郎兵衛

 おやま使いの名人といわれた辰松八郎兵衛は、人形の裾から両手を入れ、頭の上にさしあげて使う、つっ込み式の人形使いであったといわれている。その辰松が「おやま」使いであったことに大きな意味がある。つまり、近松以前には先にも書いた古浄るりの時代には、刀を持った人形によるチャンバラが多かった。その人形たちめ中から辰松がおやまを使ぅ、つまり、立ちまわりから、女のこまやかな所作を使いこなした。ここに辰松が人形を演じさせた大きな役割があろぅ。

 人形で演じようとした辰松が、近松の作を得て、ますます人形を演じ、出使いへと発展する。ところが、辰松は「国性爺」で大あたりを取りながら、東下りをし、二度と上方の地を踏むことなくおわっている。それは、辰松が、つっ込み式のさしあげ使いの人形使いであったからである。つまり、金平物から発展してきた、つっ込み式に、おやま使いから、出使いまで完成させながら、近松と袂をわかつには、それだけの理由が必要である。推測でしかないが、「国性爺」は、近松が、辰松の演じるつっ込み式の人形に対する、東下りの花むけであったのではなかろうか?

◇生活を演じる人形

 つっ込み式の人形には、足がない。人形が立ったまゝの状態である場合には、つまりチャンバラなどには都合がいいが、生活を表現する立居振舞は不得手なのです。日本の生活様式がとくに座ることの表現が必要である以上、つっ込み式では表現しきれない。しかし近松が書きつづけてきた作品は、生活であり、人形が演じる世界をより重くさせていった。結果は辰松には、その頃まだ金平物一辺倒であった江戸へ下って、自分のつっ込み式の芸を見せたいと願ったのではないだろうか。それ以後の人形は、あきらかに三人使いへと発展していくもとの構造と考えられる、人形の後から手を入れて人形を使う、かかえ式の人形に取ってかわられる。しかし、それ以後も、道行きの場には、つっ込み式の人形が使われたとあるのは、道行きでは、人形が演じることの中味が、ほとんどが、立ったまゝでの表現ですむことから、のこされたのであろう。

◇現代人形劇が近松を演じる

 近松の時代の人形は、一人使いであったことは承前のことである。そして、私たちが近松を演じてきた人形も一人使いを基本とした、人形の後から手を入れてかかえて使う人形である。

 日本の人形劇が人形に演じることを要求し、その必然として出使いが生まれてきたと同時に日本の生活様式が、つまり着物をはじめ、座る生活習慣が、つっ込み式から、かかえ式へ進んだ。これは、現代人形劇においても、十年くらい前までは、ほとんどが、つっ込み式の、つまり辰松式の人形構造が主流をしめていた。

 それから、棒使いという、人形の手に棒をつけ、その棒を動かすことによって人形を操作する方法、多くは、ソビエト、チェコの人形に学ぶことが多かった。それらの人形は、ヨーロッパの人形劇の表現にはたしかに適していた。

 私たちでも、ソビエトの現代人形劇の戯曲や、ヨーロッパの民話や童話を脚色上演するに日本のは適していた。ところが、近松をはじめとして生活を人形が演じるということにおいて、座るという表現が大きな意味を持つ時、いやおうなしに座ることのできる人形の構造が要求される。

 文楽の人形を見ても女の人形には座るためだけの構造として、金玉という座ぶとんがぶらさげられるのを見てもわかる。そのためかどうかは知らないが、現在の文楽は、地べたであれどこであれ、無原則的に座るのには、へいこうするが。ともかく座ることと、生活を表現するための道具を人形を使うことがなによりも必要とされる。その結果、現代人形劇においても、より多く日本の生活をその戯曲上の表現として取り組む場合に、人形に演じさせる場が拡大され、そのことを可能とする構造と、それを表現として演じさせることのできる人形使いが必要となってくる。

◇近松と三人使い

 文楽の三人使いの人形が、三人使いという様式において完成されたものであることに異議をはさむものではない。しかし、こと近松の人形劇に対するイメージからする場合にはどうしてもちがうといわざるを得ない。我円引水に、現代人形劇の側からいうつもりではなく、近松が人形にたくした、人形が演じるというものは、人形が、人間に近く、見事に演じるものではなかった。つまりそれは、あくまでも、人形が直載に人形である世界、人形が生きているというのは、人間に近づいて生きているのではなく、人間と正反対の極にいて生きているものであったと思える。このことは、「油地獄」以来、かたくなに、近松が、「人形にかかるを第一」としたイメージとして私は持ちつづけている。

 別の角度からいうなら、近松を現代人形劇が演じることができるのは、この点以外にはないのではないかということでもある。その為に、近松は人形でしか演じることはできない。人間劇では演じることができない。≠ニいい、人間の芝居の人たちから、ひんしゅくをかったこともあった。
 今、近松人形芝居その三を上演するにあたって、やっと、このあたりまで現代人形劇が近松を考えてきていることとして書いてみた。