地獄と極楽浄土
日 隈 威 徳


 「その頃、横川に『何がしの僧都』とかいひて、いと善き人、住みけり」で始まる『源氏物語』手習の巻で、入水自殺しようとした浮舟を救ぅ老憎は、恵心憎都源信(942〜1017)をモデルにしたと伝ぇられる。この源信の主著『往生要集』は、人びとに「厭離穢土(この世を厭い離れる」「欣求浄土(浄土を喜び求める)を教えるために、わが国で初めて体系的に書かれたもので、後代に大きな影響を与えた。いわゆる浄土教思想である。

 阿弥陀仏に帰依する浄土信仰がインドで生れたのは、紀元前後である。日本では平安末期から鎌倉時代にかけて、末法思想が受け容れられ、「地獄草子」「餓鬼草子」なども流行した。地獄と極楽浄土の観念が、説教だけでなく、あるいは絵図で、あるいは歌で、民衆にひろめられた。「地獄の沙汰も金次第」「地獄で仏」といった俚諺は、今日も人口に膾炙されている。

 ところで、地獄は、インド語NARAKAの意訳で、音訳は奈落であり、舞台床下の部屋を指すあの「奈落」である。『正法念処経』という経典−『往生要集』の地獄描写は、この経典に依っている−には、八大地獄をはじめ、これでもかこれでもかと、ありとあらゆる残虐な刑罰が加ぇられる地獄が描かれている。

 しかし私たちは、昔の経典をひもとかずとも、地獄はいまなお、この地上で、業火の炎を燃やし続けていることを知っている。今年の原水爆禁止世界大会の長崎アピールはいう。 「生き残ったものは、どうか?身を焼かれ、皮膚を垂れ下げて彷徨した呆然自失の人々の群。膿をもった傷口に沸く蛆。飛び出した目玉を胸の前にぶらさげた人間。屍と化したわが児を離さぬ若い母親。父や母やわが児が目の前で死んでゆくを
なすすべもなく見たおびただしい数の人々。これはまさに、この世の地獄でなくて何であろう。」

 こうした地獄を拒否するために、反戦平和の署名を一人ひとり集めるといった仕事は、ちょうど地獄の入口にあるといわれる「賽の河原」で、恐ろしい獄卒に責められながら小石を積み上げる子供の作業のように見えるかも知れない。だが、経典では文学的にしか描くことの出来なかった極楽浄土を、この地上に建設しようとする現代民衆の力が、古代や中世とは比べものにならぬほど大きいことはたしかである。
   〔文教大学講師)