『セチュアンの善人』の人形劇上演に寄せて 
大阪外国語大学教授 市川 明


 ブレヒトは人間や社会というものを見方を変えて描いていくことで、人々が今まで日常的に思っていたりしたことを変革しようと芝居を書いてます。(これをよくブレヒトを語る場合、異化効果という言葉が使われます)。異化効果が人々の認識を変える目的であるならば、登場人物が人形である人形芝居は初めから異化効果なんです。でも、それでは当たり前すぎます。私達の課題は、初めから異化されたもの(人形)から出発して、異化の異化(真実)をつくらなければなりません。そうすることで、いままでと異なる人形芝居がつくれるのではないかと考えています。

 ただモノに過ぎない人形こそが、本物の「人間」を描ける芸術だと信じて、ブレヒトに再挑戦したいと思っています。
「心を鬼にして」「シビアに割り切って」「ビジネスライクに徹して」等など、仕事の場ではよく聞かれる言葉である。お金本位の資本主義社会にあって、温情主義は身の破滅というわけだ。宝くじや何かで大金が転がり込んだ場合、「友人から」たかられることも珍しくない。こんな時にも「いい顔ばかりはしていられない」と痛感するだろう。ブレヒトの寓意劇『セチュアンの善人』は善良でやさしい娼婦のシェン・テが、神様に一晩の宿を提供したお礼に、ちょっとしたお金を手に入れ、悩み苦しむ話である。

 天上にいる三人の神様は、殺人、事故、自殺など世の中の乱れを聞かされ、神の道徳(十戒)が何の役にも立たないのではないかと心配し、地上に降りてくる。一人でも善人を発見すれば、自分たちの掟の正しさが証明されると思い、必死で善人を探す。やっと巡り会えたのがシェン・テで、存在の全否定から免れた彼らにとって宿賃は、安い「報酬」に過ぎない。神様はシェン・テに善良であり続けるように言い、姿を消す。

 シェン・テは神様から授かったお金で小さなタバコ屋を開くのだが、噂を聞いて押し寄せる知人や親戚。開店の日にシェン・テはもう破産の危機に瀕する。何事にもノーと言えないシェン・テだが、居候の八人家族の助言により、この店の本当の持ち主で、厳格な従兄シュイ・タを作り上げる。冷酷な資本家に時々成り代わることによってしか生きていけないことが、シェン・テにはよくわかったからだ。
 善良なシェン・テから冷酷なシュイ・タへの転換をシェン・テは当初、どうしても必要な場合に、しかも短期間に限って認めていた。だがパイロット崩れのヤン・スンの子どもを宿したことなどもあり、次第にシュイ・タでいる時間が長くなっていく。シュイ・タはタバコ工場を設立し、貧民を搾取し、セチュアンのタバコ王と呼ばれるようになる。だが「場末の天使」シェン・テのあまりにも長い不在を不審に思った長屋の連中は、シュイ・タがシェン・テを殺したのではないかと騒ぎ出す。

 裁判が開かれる。裁判官として現れた神様の前で、シュイ・タはまずみんなを退廷させることを要求し、真実を語ることを約束する。シュイ・タは仮面を取って、自分がシェン・テであることを明かし、「善良であれ、しかも生きよ、というあなた方の命令があたしを真っ二つに引き裂きました」と訴える。だが神様は何の解決を与えることもできず、天上に逃げるように去っていく。
「暗黒の時代/そこでも人はうたうだろうか/そこでも人は歌うだろう/時代の暗黒を」。海峡越しにドイツを臨むデンマークの町スヴェンボリで、ブレヒトは友だちの闘争を見守りながらこう書いた(『スヴェンボリ詩集』一九三三〜三八年)。だが暗黒はますます広がり、歌声もかき消された。一九三九年にスウェーデンに逃れたブレヒトはアメリカへ向かおうとしビザを申請するが、ナチスの軍隊はビザの取得よりもはるかに速いスピードでブレヒトに迫ってきた。四〇年四月にナチスがデンマークに侵攻したのを聞き、ブレヒトは妻ヘレーネ・ワイゲルに子ども、共同作業者のマルガレーテ・シュテフィンをつれて船でフィンランドに渡った。家具や本はスウェーデンの友人のところに置いたまま、原稿の入ったトランクだけを抱えての脱出だった。彼らは亡命者というよりはむしろ難民だった。

 『セチュアンの善人』はデンマークを出るほんの数日前に書き始められ、完成を見ないまま、スウェーデン、フィンランドへと仕事は持ち越された。三九年から四一年にかけて点々と渡り歩いた北欧の亡命地で、この作品は難航の末、書き上げられたものなのだ。もちろん上演のチャンスはまったくなかった。「世の中が変われば、この作品が上演できるようになるかしら。でもこの作品を上演することによってしか、世の中が変わらないとすれば…」。協力者シュテフィンの嘆きは、シェン・テの嘆きに重なる。『セチュアン』の成立史はこの二〇年代に逆のぼる。町へやって来て食事にありつけなかった三人の神々をモチーフにした詩「ドレスデンのマチネー」が一九二六年に書かれている。二七年には一人の娼婦がタバコ店主に成り代わる『ファニー・クレッス』の構想が練られ、三〇年にはこの脚本の最初の稿である『愛という商品』のための覚書が出された。
 初演は一九四三年二月にスイスのチューリヒで行われた。ドイツでは五二年のフランクフルト上演が最初だが、ブレヒトが亡命から帰還した東ドイツでの初演は五六年、ベルリーナ・アンサンブルでは五八年にやっと舞台に乗る。ブレヒトは自分の劇場での上演を観ることなく五六年に亡くなっている。

 『セチュアン』の音楽は、初演時にはスイスの作曲家フリューのものが用いられたがブレヒトは満足せず、クルト・ワイルとの共同作業を強く望んだ。結局この構想は実現せず、五二年のドイツ初演以降、パウル・デッサウの音楽が用いられている。「煙の歌」はニーチェのニヒリズムに通じるし、「雨の中の水売りの歌」はマルクスの過剰生産恐慌の理論と合致し、貧しい者がますます貧しくなっていく様子が示される。旧約聖書のソドムとゴモラの町の破滅を暗示した「神々と善人の無防備の歌」では、シェン・テとシュイ・タが同一人物であることが明らかになり、民衆の怒りや抵抗を表した第一幕のフィナーレとなる。「決して来ない日の歌」は悪人は罰せられ善人は報われるという聖書の教えの強烈なパロディである。「八頭目の象の歌」はチャプリンの『モダンタイムス』を思わせる。次第に音楽のテンポを上げることによって「八頭目の象」に監視され、搾取される労働者の実態が浮かび出る。最後の神々の三重唱も、神々を笑いものにする軽いタッチの歌である。

それにしてもこの作品は何と現代の社会を巧みに映し出していることだろう。二つの顔を使い分けしなければならない主人公の苦悩を誰もが共有している。他にもこの作品のキーワードをあげてみよう。

 シングルマザー││子どもができてもシェン・テは男など物ともせず子どもと二人で生きていく道を探っている。
 援助交際││お金持ちのシュー・フー旦那は、シェン・テに「お金による」「清らかな交際」を求めている。
 就職氷河期││スンは飛行学校で学んだものの、就職できない。職を得るためには賄賂も必要なのだ。
 超過保護ママとマザコン││スンの母親は超過保護で、息子のために奔走し、シェン・テに協力を約束させる。スンはシェン・テに対してはプレイボーイ風に振舞うが、母親に対しては全くマザコンである。
 猛烈社員││スンはやがてシュイ・タの協力を受け、タバコ工場で労働者を搾取する猛烈中間管理職になる。
 結婚願望││永久就職としての結婚に憧れ、一時はシェン・テもみんなの勧めを受け入れ、「お金」と結婚しようと思う。
 インチキ商法││ワンは二重底の升で水を売っている。二重底(ダブルスタンダード)でしか生きていけない現実。
 ブレヒトが言おうとしたことはお金本位の厳しい社会(資本主義)において、善良であることは破滅を意味する。社会を変革することによってはじめて、人間は善良であり続けることができるということだった。
 社会主義の賛歌とも言うべきこの作品は社会主義が崩壊した現代において様々に読み解かれる。
 ジェンダーのドラマ:男性中心社会において、女性が生き続けるためには、ときどき男性に成り代わるしかない。 変身のドラマ:現実を否定し、なりたい願望、変わりたい願望を芝居空間で実現する。 権威否定のドラマ:神様の無力が暴かれ、権威が地に落ちる。等々である。
 次はやさしいオカマのシュイ・タを主人公に、冷酷な女性実業家シェン・テがからむ男版『セチュアンの善人』をやってみたい。