専門劇団として歩み始める


1950年1月を迎える

 1949年は、クラルテにとっては、専門劇団への道をやみくもに猛進撃し続げた年であった。しかし世の中は、七月におきた下山事件に始まり、三鷹事件、松川事件とつづき、日本の民主化に逆行する力がどこからか働き、五〇年に入って、レッドパージと続き、不気味な世相になっていった。
 50年1月は7日から滋賀県の公演が始まった。班編成は、山添、金子、北田、佐藤、多治見の五名であった。上演地は、八日市、永源寺、水口町、の三か所、四日間。六回の上演で、660名の観客数と記録されている。レパは「ドン太の樽屋」「人の良いお百姓」「かちかち山」の三本立ての上演をしている。この上演の記録に初めて佐藤昭子の名前が出ているところから、この時期に参加してきたと思われる。彼女は、情熱をもって、人形劇とその運動に参加してきたのであった。
 しかし、このあとの上演の四国公演が終わって退団した。それは、親が彼女を座敷牢に閉じ込めて、外出禁止にされたことで、劇団に来たくても、来れないというありさまになってしまっていた。
 このころはまだ、女の人がドサ回りの劇団に入って芝居をするなんてことを家の恥としてとらえる親たちが後を絶たなかった。
 在阪のメンバーの多くは、卒業を前にして勉強に励んでいた。というものの、私の実際はほとんど勉強なんぞしていなかった。
 滋賀の公演から帰って、多治美は四国の先乗り(制作)に入った。そして、1月29日の高知を初日に、2月23日までの約一か月の長期の公演をしている。
 この四国の公演で多治美が初めて専従の経営(制作)部として独立して公演班についた。そのために、多治見がやっていた役の俳優がどうしても一名足りなくなり、金子が「のぴる児童文化研究会」で知り合いであった、戎一郎を強引に口説き落として、いきなり旅公演に参加させた。
 「のぴる」は吉岡たすくさんを初め、今はすでに亡くなった、貴志周平さん、前橋英太郎さん、その他多くの、若い気鋭の保母さんや、教師の集まりであった。戎は「ともだち劇場」の仕事をしていたが、有無を言わさず引っ張り込んで、四国公演にほとんど稽吉もせずに連れていって、いきなり人形を持たせて芝居をさせた。
 この四国の公演は記録が残っているので、一部書き抜いてみよう。

「1月28日曇りのち雨
★清ちゃん、{吉田清治〕圭ちゃん、(井上圭史)広常君、芳川さん、宮軒君、の見送り、涙の出るほど嬉しかった
★天理教の一団が同じ船に乗ったので、二等船室は超満員、垢だらけの毛布、悪臭、エンジンの騒音で眠れぬ、但し俊ちゃんはよく寝た。(以上27日〕 
★6時5分〜11時20分まで、汽車の旅。南下するに従って、オーバァを脱ぐようになる。 
★高知県委員会に世話になる。細胞会議で次の事が決まる。
a.事務局構成文化工作隊(公演班)キャップ 山添、財政 佐藤、通信 北田、記録 全員{責任者 戎)運営 金子、
b.創造活助 原則として公演後、批判会 
★会議途中、多治美来る、スケジュールの打合せ、会議中断  
★ほがらか座、電産トランス座の諸君と座談、芸術至上主義傾向あり、電産労組内に演劇部と音楽部との対立、音楽部の職人的意識と演劇部の極左的傾向 
以上 戎 記録 

 と、まず四国公演第一日目が記録されている。
 次の日は「戎ちゃんははじめてクラルテの公演を経験したわけだが、彼の積極性と素質はクラルテの一員として大いに期待されてよい」と書かれてあるのを見ても、大いにハッスルして頑張った彼の姿が目に浮かぶ。
 この同じ時期に、プークも四国に入っていたらしく、徳島でその頃のプークの制作部長であった。白石氏と出会った事が書かれている。
 四国公演は、すんなりとやれたわけではない。文工隊の活動をやりながら、穴のあいたところは、小学校公演の仕事で、なんとか埋めるといったやり方であった。
 文工隊活動は、小さな田舎の村に着くと、すぐに街宣(街頭宣伝をちぢめてこういっていた)に出て、一里〜二里は、人形とアコーデオンを持ってめざす公演の場所まで歩き出す、目的の家を士地の人に尋ねたら「ああ、その家なら、ずーと空だ」といわれて、びっくりしたこともあった。そして歩きつづけて目的地につくと、背中のリュックサックから、人形と道具、舞台を組み立てて上演。
 終わると、またリュックに荷物を詰め、もとの道を歩いて帰る。少しでも休みがあるとただ眠る。それだけが楽しみ、というより生理的要求であった。
 そしてビタミンの注射薬を持っていて、誰彼となく注射を打った。
 2月9日に、小豆島へ向かう。しかし疲れは溜まってくるのに、お金はまるで溜まってはこない。一回の上演でお客は100名程度。10円の入場料で、1000円の収入しか上がらない。予算は2回公演で5000円、大きく赤字である。
 2月10日は学校公演がつぶれて、子ども五円で一般公演をする。200名の入り、収支の勘定は116円の黒であった。
 この頃になって、克服すべき諸欠陥についてと題して、決定が書かれている。
 2月14日の記録には次の文章が見える。
 
「すっかり疲れてしまった。演技の荒れを防ぐことが出来ない。適度の休養は工作活動、殊に長期の場合には必要である。演技の荒れは大部分この疲れからきている。明日は休みになった。!!(庄内村−中止)」

 と悲壮感にあふれている。2月16日には、観音寺で、なんと一日に5回上演をやってのけている。
この公演は後に、鹿児島の串木野で上演したときのと、並ぶ記録に残るハードな上演であった。
 1月29日から2月14日までの16日間の上演で、高知、徳島、香川の三県で、総水上げ2万円ではどうにもならなかった。「思い出しても、ぞーっとする」と書かれてあった。そして、収支の勘定では、一万円の赤字で終わった。
 ここに四国公演の記録を書いておこう。
 
★高知県 高知市、 高岡市、伊野市、稲生町、大杉町  ★徳島県富岡町、帝国繊維、小松島町   ★香川県 高松市 小豆島 善通寺市 与北町、多度津市、観音寺市  ★愛媛県 壬生川、丹原、松山市、松前町、郡中町  ★公演日数 二八日、上演日 二四日、上演回数 五三回、動員数18.033名  ★レパートリー どん太の樽屋 人の良いお百姓 裸の王様の3本
 
 この公演から帰って、佐藤は劇団には現われなくなった。「家の方で足止めをくって、家から外へ出られない」といった手紙が劇団に舞い込んだ。若い女の人が、長期に渡って、家をあけて旅公演に出るということは、まだまだ理解されないことであった。しかし、この頃の女性の役者は貴重であって、その後に差し障りのあることになった。

50年3月高校新卒、劇団に参加

 大阪市立高校の三年生であった芳川、野原、吉田の3人は無事に揃って卒業出来た。とは言うものの、わたしは卒業試験は2つも赤字があった。英文法ともう一つ何かであった。そのために、追試験を受けなくてはならなかったのであるが、担任の教師が受けたことにしとくから、と言ってそのまま卒業してしまった。よほど嫌がられていたのかもしれない。つまり追い出されてきたのであった。
 みなそれぞれは、高校を出て、正業につくか、それとも、大学へ行くか、いろいろに悩みはあった。
 芳川は母一人、子一人で、母はなんとしても、人形劇をさせることに、反対であった、野原は爺さん婆さんと彼との暮らしであって、爺さんもだいぶ年であったし、婆さんは、寝たきりに近い状態であった。わたしは幸いなことに、家の問題ではそれほど切羽詰まったことではなかったが、高校の二、三年頃から急に美術、なかでも彫刻に興味を覚えるようになっていた。
 一年前の敦賀の公演に一緒に行った同級生の渡部は、家の人からクラルテに行ってもらっては困るという圧力もあって、劇団の方にはやって来ていなかった。京都美大の油絵科を受けるべく京都の研究所に通っていた。彼の家に遊びに行って、研究所でかいている石膏のデッサンを見せてもらって圧倒されてしまった。私も遅ればせながら、美大の彫刻科へ行けたらいいなあーと考えるようになっていた。しかし、渡部ほど、どうしても、美大に入るのだ、といった強い意志を持って考えているのではなかった。憧れのようであった。高校を卒業するにつけて、敦賀の公演に一緒に行った川村博子さんから、卒業記念に石膏の彫像をあげるといわれて、私はミケランジエロの奴隷の像が欲しいと言ったところ、学校にあった奴隷の像から、複製の石膏像を業者におこしてもらって頂いた。これは、忘れられない嬉しかったことであり、引っ越しの時に野原宅に預けたままになっているが彼の家で元気でいてくれたらいいのにと思っている。
 50年になって、いよいよ、どうするかといったとき、なぜかプークの川尻泰司が劇団にやってきたことがあった。それまでに、川尻さんは度々劇団に来て、人形劇運動の現状や未来について熱っぽく話していた。だから何回目かの出会いであって、上二の講習会、東京の四谷での講習会をいれると、5、6回は会っていた。
 そんなある日、私は高校を出たら美大に行こうかと思っている、と言った。すると川尻さんは、「美術というのは、学校で教えられるものではなく、大切なことは、『認識』であって、それは自分自身が学び取っていくものである」と、学校へ行くより、今、人形劇をする事の大切さを、川尻さん一流の熱っぼい情熱的な語り方で、話してくれた。何かよくは分からないままに、そんなものか、と思うのと、もともと、学校や勉強といったことが嫌いであった私にとっては、ちょうどよい話ででもあった。
 その頃になって、父が戦争中の疲れや、その後も子どもたちは全く親不孝な子どもぱかりで、自分一人で闇屋をやりながら家族を支えてきていたが、体の調子を崩して休んでいるこをが多くなっていたことも大学へ行かない言い訳にもなっていた。 ずるずると、3月まで来て、めんどくさがりやであったわたしは、そのまま、人形劇をすることになった。

兵庫県西播磨地方の公演

 49年の8月の夏休みに、大手前高校から、初めて参加してきた中原が、初めて地方公演に参加したのが、この年50年3月の17日から25日までの、兵庫県の西播地方とよばれていたところであった。
 新人を連れて、旅公演に行くのは初めてであったし、なにか、若い女の子か、それとも、こわれものを連れていくような気のつかいようであった。しかし一方では、新鮮な雰囲気と、先輩風を吹かさなければならないといった、緊張した雰囲気でもあった。
 公演の場所は姫路から姫新線で中国山脈に入った、三日月、上月、佐用、幕山といった、山中鹿之助が、「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったと伝えられる、尼子の領地であったところである。
 リユックをかついで公演地までいくのに、駅から半日ぐらい歩かなければならなかった。まさに、我に七難八苦を与えたまえといったところであった。土地の人たちにとっては、峠から峠を越えての生活は、日常のことであった。
 ○○まではどれくらいかかりますか?と聞くと、ああ、この先だ、と答えてくれる。それが、二里くらいあるのには、暑さと、リユックの重さとで、へとへとになった。暑いときは、アイスキャンデーを口にしている時は、まだ元気があったが、峠の山越えには、アイスキャンデー屋もなかった。
 芝居の出来は、ほとんど記憶にはない。
 中原が、イギリスの腕相撲というのを、持ち込んできて、みな酷い目にあったり、芳川が煙草をすって、目をまわしてひっくりかえったり、回転焼きを120秒で食べられるといって、かぶりついて、口の中を火傷したり、まさに子どもじみた小学生の修学旅行の出来事みたいな、記憶だけが残っている。
 そんな上演からスタートしたのであったが、経営(制作)は戎が担当した。戎は初めての制作で、これには四国の制作をやった多治美のやりかたに張り合って、『よし、やったる』と意気込んだところが多分にあった。
 しかし、この中国山脈の山間に入ったこの地域では、そう簡単に人形劇を見てくれる多くの人々を集めるというのは難しい。我々が行く前に、前進座が廻っていた。前進座の知名度でもって、かなりの観客を集めたものの、1ステージのギャラが5万円ということで多くの赤字を出したということであった。
そして、プークもこのあたりを廻ったが、やはり、赤字を出していたということであった。
 その後を、ハゲタカが猛禽類が食べ残した残飯をあさるように、私たちは小きな部落を目指して、入っていった。
 作品の出来も、あまりいいものではなかったことは確かであったが、主催者側からは、もっと今の政治情勢に適切な、アジプロの明確な作品であれば、もっと協力出来るのだが、と体のよい批判を受けたが、当時の技術力では、遺憾ともしがたいことであって、やはりスケジュールにも穴をあけて帰ってきた。
 上演日誌から書き写してみよう。
 
3月21日(火〕晴れ
★今日のプランは上郡であったが、ここが断ってきたので討議した結果、相生付近の村へ手打ちでやることに決定1:00 PM、郡波、徳来寺、200名
ここは播磨造船の社宅が多く、給料前で、苦しいところなので大人十円、小人5円で宣伝したが、良く集まって、成果があった。
★7:00 PM 坂田 持願寺、300名
社宅と村の人との両方が、かたまっている所で、一時間ほどの宣伝でよく集まった。芳川君の童話はなかなか熱演だった。
今日は皆よく頑張って、手打ち公演としては、優秀な結果を上げた。

3月23日火(水)晴れ
★8時20分発の汽車で上郡につき、そこから一時間半かかって、佐用に着く。
連絡の不徹底で上月で下りなかったため、山を越えて、一里半歩いて、幕山まで行った。
さながらハイキングのようで気持ちがよかった。

 しかし、ここ幕山でも、主催者側は税金闘争とやらで、そちらにほとんど手をとられ、人形劇の上演に対しての取り組みは、ほとんどなされてはいなかった。

4:00 PM から幕山小学校で公演、行動がポロなため、工作室にうつして上演、観客は100名
夜は天理教の教会で公演する。観客は30人。
★3月23日(木)
朝七時に集合になっていたのに、芳川、北田、中原の3人組みが一時間の遅刻、あわてて、飯をかきこみ、自転車で、上月の駅までとばす。つかれもなにもかも、ふっとばす勢いでとぱす。
とくさに着き、金子は新政中学へ売り込みに行き、一人、5で見せる。夜の公演は、芝居小屋でやることになっていたが、小屋代が高く、2000円もするので止める。このままでぱ、みな非常に疲れているし、帰っては・・・そして次の夜、100名の観客を最後にして、大阪へもどる

  西播公演の記録
  3月17日より23日まで
  公演地 姫路、飾磨、相生、幕山、中安
  日数  7日間
  上演回数 14回
  観客数  2.604名
  レパ ドン太の樽や、人のよいお百姓、裸の王様
  
 といった有り様であった。3人の新たな専門劇団員を抱えてのスタートとしての公演としては、決して生易しいものではなかった。

 記録を読み返してみると、えらく深刻で、これではどうにもならん、といった案配ではあるが、その公演に参加していた一人一人は、若さという何物をも恐れない、たくましさに、一刻一刻は新鮮な驚きと、また楽しさとに、ただ浸っていたといってよい。つまり、専門劇団だから舞台の水準はこれだけでないとやってはいけないといったような深刻さは全くなく、遊びの延長のようであった。この公演の中では、いくつかの後の世に残るエピソードも生まれた。

 その一 街頭宣伝に出ていて、帰ってきた時の休憩所が、一文菓子屋さんで、店先で、太鼓饅頭を焼いて売っていた。誰がいい出したのか、太鼓饅頭の焼きたてを何分で食べられるやろか?とかけをした。三〇秒、いや一分・・・「一分やったらかるくや」といったのは、食べることでは、人後に落ちない、芳川であった。かれは、大きな口を一回り大きく開けて、たからかに、一分あったら食べてみせる、と宣言した。店先でおばあさんが焼いていた太鼓饅頭の焼きたてのをもらって、ヨーイドンと、時計を見ながらスタートした。
 かれは、一口ぱくりと太鼓饅頭を口に入れた、なにしろ、彼は、自分の握り拳が、自分の口の中に入る特技をもっているぐらいであるから、太鼓饅頭ぐらいは、屁ともなかった。その瞬間、奇声を発した。「熱い!」太鼓饅頭の中から、焼けたあんこがニューと出たのであった。そのまま彼は、太鼓饅頭を吐き出したまま、一分たっても口の中へ太鼓饅頭を運び込もうとはしなかった。

 その二 このエピソードの主人公も、なぜか芳川である。うるさかった高校も出たし、旅公演にも来ているし、生意気盛りに、酒もちょっびりやりたいし、たばこも吸ってみたいという気になるのも無理ないことである。「僕もたばこぐらいは吸えるで」と金子から、'新生'一本をもらい受けて、マッチで火を付けたのは芳川であった。たばこを吸うしぐさの度にお尻は持ち上がるのであったが、たばこの煙は口の中に入るだけで、咽から肺のほうへは少しも入ってはいない。
 「それでは、たばこを吸うてるんとちがう、ふかしてるだけや、肺の中にのみこまな」とやーやーいうている内に、彼は一息、すーっと吸い込んで煙を吐き出した。
 「これでええんやろ」と得意顔をするのかと思いきや、頭をふらつかせて、その場にバッタリ横になてしまった。たばこに酔ったのであった。しばらく回りのみなは、腹をかかえて笑いころげたのであったが、かれはまだ眼を白黒させていた。
 こんないたずらとも悪さともいえる馬鹿げたことに、若さの発散とはいえ喜んでいるようでは、革命じゃ、闘争じゃ、組織の拡大じゃ、と言ってもそれは頭の上をただ涼しげに通り過ぎて行くにすぎなかった。
 3月の西幡磨公演から大阪に帰ると、柳瀬幸吉が劇団に参加していた。

1950年4月  劇団員10名になる

 クラルテがサークルとして出発し、また劇団としてまがりなりにも上演活動を続けてきたのは労働組合や、民主団体、共産党の組織などを頼りとし、またそれらの組織よりの要望を受けての上演活動であった。しかし、これまでの記録をみてもわかるように、苦労の多いわりには、実益の少ないものであった。
 勿諭、それほどの創造的な成果をもたらすほどの、舞台を造ってきたとは言えないものの、精一杯の仕事はして来た。サークル活動の時は、それでも上演することが面白かったし、受け入れてくれる側も、サークル活動として受け止めるところでは芝居の中身や、また経済的なことは、さほど問題にはならず、お互いにお祭りとして楽しく受け入れられていた。
 しかし、サークルとして、活動しているのとは違って、発展的ではあるが、劇団が、専門化し、職業劇団として活動するとなって、あらためて、問題を問題として感じざるをえないこととなった。つまり、四国と西播磨の公演のありかたと同時に、自分たちの上演にたいする対し方は深刻に受け止めざるをえなかった。

 4月になって、クラルテ会議はこの問題を討議した。3月から新しく高卒のメンバー野原、芳川、吉田と3名が入り、そこに4月になって柳瀬、小見山が参加して劇団員は10名になった。そのメンバーの半分はすねかじりの身分とはいえ、専門劇団としてはそれなりの身分保証をしなければならなかった。クラルテ会議の討論は劇団経営のありかたに終始した。

 つまり今までの、外部の組織に依存した形での上演体制では限界があり、劇団としての独自な上演計画と、上演体制を進めていかなくては、現状を打破していくことは出来ない、という結論へと進んでいった。
 当時経営部長であった多治見は、自分の出身地である山陰地方、特に鳥取、米子を中心に学校上演を企画しようということが決定された。多治見は鳥取県大山の山の上の分教場で代用教員をしていたこともあり、そこを突破口にして、なんとか小学校を中心とした学校上演をやっていこうとした。この決定をしたことは、専門劇団として生き延びていくことではとっても重大な決定であった。しかし残念なことは、レパートリーは、依然として「ドン太の樽や」であり、「人のよいお百姓」、「裸の王様」でしかなかったことである。

自分たちの力で学校上演を開始

「4月4日、夜行で大山口につき、喜楽旅館に泊る
4月5日 所子中、小学校上演、をはじめとして、第一回の山陰公演が始まる。」
 田舎の小中学校はほとんど電源がなく、照明なしで上演することも多かった。照明をするといっても、当時は、ブリキでこしらえた、手製のストリップライト(龕灯のようなもの)をいくつか手持ちで、持って行ってたにすぎなかったのであるが、それすらも使えないといった状態であった。
「4月8日米子に出て、米子を中心に上演を行う。
 米子では、米子西高校の先生で民科の活動家であった亀井先生が大きな支援をしてくれた。保守色の強い山陰地方の学校上演は、「ドン太の樽屋」の風刺が強すぎるということで随分と悩んだ。おまわりさんが「天皇陛下万歳」と言って倒れるところのセリフをカットしたり、いろいろカモフラージュに苦労を重ねる。
4月12日(水曜日)
  米子市内の小中学校公演は、寝首をかかれた落ち武者の様に惨憺たる敗北だ。
  一日1000円のギャラは上がるどころか、赤字はぞくぞく累積されていきそうだ。本官(制作を担当していた多治見の愛称)の苦衷はさっせられて、ともかく文句も出ない。経営って、本当に難しいもんだ。一に押し二にハッタリ、常人のできる仕事じゃない。本官に敬意を表す。・・・ドン太は大幅に譲歩したので、げっそり。明道小学校の校長は米子で一番の反動と、折り紙つきらしい。それでドン太のおまわりと、神主のセリフは大カット。無念。まったく悲壮だ。だから極楽経営はいやだと、又文句が出た。同感、昼からは啓成と住吉、いいお客さん達で熱心にみてくれた。」

 と、記録されている。そして4月16日御来屋で小、中、一般と公演をおえて、大阪にもどる。
 
 初めて、組織から離れて、独自の制作活動でもって上演活動を行った。結果としては決して充分な成果を上げ得たとは言えないが、とにかく自分の足で歩き始めた初めての仕事であったことの意義は大きいものがあった。
 この第一回、山陰公演に参加したメンバiは山添、戎、北田、野原、芳川、柳瀬(新入団)そして、制作、多治見
 金子は大阪にいて、制作活動をし、吉田は新たな仕込み直しの「手風琴弾きのゴーシュ」の美術製作をしていた。

劇団のパンフレット、「クラルテ案内」から

 4月10日の日付のある、「クラルテ案内」のパンフレットを見てみよう。
 「関西の皆様には、長らく御無沙汰してしまいました。四国、山陰などの地方公演に力をいれておりましたため、長らくお目に掛かりませんでしたが、再び、元気なクラルテの人形達の姿をみていただこうと思います。私たちは既に、大小の公演を合わせて300回近い公演記録を打ち立てて、工場、学校、農村とあらゆる所で、あらゆる人たちから、絶大な支持を得てまいりました。
 現在、人形劇に関する偏見が少なくなく、高々子どもだましの、動く紙芝居位にしか認識されておりません。私たちは今日の映画や雑誌が、中には良心的なものもあるにしても、全体として、子どもに見せたくない、タイハイ的な、無意味な方向に進んでいる一方、人形劇に対する誤った考えのあることを残念に思い、健康で明るく、楽しい、民衆の芸術としての人形劇の一層の高揚と普及をはかりたいと思います。
 ここ当分の間、大阪の学校巡演、関西各地の工場巡演に力を注ぎたいと思います。私たちのこうした意図に対し、学校や職場の皆さんの絶大なご支援、ご協力をおねがいする次第です。
               1950 4 10」

 と書かれてあり、このパンフレットを作ったりしていたのが、金子の在阪での仕事であった。つまりここに書かれてあるように、大阪で学校巡演をやろうとする意図が見える。この時期に学校上演の制作をし、六月に大阪市、府下の巡演をやったとだけ、記録にはあるが、その中身はなにも残されていない。いくつかの、コネの強い小学校で上演をしたに止まったと思う。
 四月の山陰公演から戻ってみると小見山和子が参加していた。小見山はその前年49年の11月にプークから入団の誘いがあり、彼女もプークヘ行くつもりであったらしい。家の事情で延びていて、そんな人がいるのであればクラルテに入ってもらおうと多治美が話し合い、クラルテに参加することになった。
 小見山に劇団から出した、当時の劇団を紹介する手紙を彼女が残していたので、当時の状況が具体的に書かれてあるので記録しておこう。

「・・・クラルテとしては、現在次の様な事情がありますので、その点をご了承の上御加入下さるよう希望します。
 一、昨年11月より始めました第一期建設計画(正しくはクラルテ建設運動第一期計画)が進行中であり(一月迄)研究所の建設等、困難な仕事と取り組んでいるので、財政的にも、活動の面でも非常に苦闘しております。しかも二班制活動の実現のためにどうしても新しい人を必要としますので、民主主義文化運動、民衆人形劇運動に対する深い愛情と正しい認識を持っていられる方を希望しております。現在劇団員は14名・・・
二、人形劇については未経験とのことですが別に構いません。但し加入していただいてから一ケ月間は研究期として(給与その他での特別待遇はしません)自主的に研究していただき一ケ月後に、人形劇をやるに適しているかどうかを判定し、不適格と思われる場合は(そんな場合はほとんだありませんが・・・人形劇は誰にでも出来るといえないことはありません)退団を勧告することがあります。これはよほどひどい場合にかぎります。
三、ご質問の生活の点ですが、劇団内の実情をぶちまけてお知らせしますと、給料はA,B2級に分かれており、A級は給料の中から家へ入れなければならぬ者で、父母、祖父母等が職を持っていない者は月給四千円、現在劇団に二名います。B級は自分一人で生活する者(扶養家族を持たないという意味)は月給三千円です。しかしクラルテで実質的に劇団からの収入だけで生活しているのは二名だけでほとんどは自分の家から通っており、多少の補助を家から受けているようです。ただ三千円でも、演技部員は月の中二〇日前後公演にでますので、その間の食費は要りませんから、常時劇団にのこっている事務員、美術部員以外は充分自分の生活は維持していけます。この点についてぱ劇団給与委員会で個人の給与を決定し、生活は保障しております。
四、略
五、家の点については、なるべく自宅から通われることを希望しますが、どうしても無ければ、研究所が六月末に完成する予定ですからそこから研究所へ入って下さってもいいと思います。ただしこれは今のところ二部屋しか個人の部屋は作りませんので、入れるかどうかははっきりしません。ただ公演と公演の間の毎日の十日位は宿舎の心配はありません。
  略
  プークのようにスタイルを築き上げた劇団に入ってこつこつと人形劇を研究していくのも一つの方法でしょうし、クラルテのような建設途上の劇団に加わって、自らもその建設を共に押し進める中で人形劇芸術家としての自已を発展させられるのも一つの方法だと思います。とにかく大阪に来られたらご一報下さい。では一日も早く健康を御回復されますように・・・」

 新入団者あいつぐ

 劇団員総勢10名になって、専門劇団としていよいよ、大きく羽ばたこうとする時であった。
 時あたかも、労働者の祭典、メーデー。人形劇団クラルテの名をアッピールしようとデモンストレーション用の人形、プークがプー吉と名付けたマスコット人形にあやかって、クラ吉人形を作った。金網を芯にして、紙をはって作ったが、かなりの重さになった。それでも、経営部長で頑張っていた多治見は持ち前の剛義さでもって、はしゃいで担ぎ廻った。この人形の写真が当時の夕刊新聞「新世界」に大きく掲載された。
 しかし、この年のメーデーはレッドパージの嵐が吹いていて危機感をはらんでいた。
 五月の中頃に、福井県武生から手島源昭が人団してきた。彼との出会いは、福井震災の時、慰問公演にでかけたときに初めて出会った。そして文工隊としての公演を手伝ってくれていた仲であった。
 少し手島源昭のことを書いておこう。名前に「昭」の字がついているように、昭和六年の生まれで、幼くして父を無くし、長兄の営む材木屋でお母さんとの暮らしで大きくなった。母子家庭で育ったせいか、また兄に育ててもらったせいか、細かいところによく気のつくことと、義理と人情にもろいところのある人であった。
 手島が入団してきて一週間程して、こんどは同じ日本海側からの松江から宮坂贈男、尾原なみ子の二名が入団してきた。この二名は、松江で柏尾喜八夫妻を中心にやっていた、糸操りの人形劇団のグループにはいっていたが活動がうまく行かず、専門的に人形劇を勉強して文工隊のための高い技術を身につけて来るようにとの、派遣劇団員であった。柏尾さんは絵描きで、奥さんは後にクラルテの制作を手伝うようになるが、昼間は学校制作に歩き、夜は中華料理店の「みんみん」で働いていて、夜の仕事が終わって夜中に家に帰る途中、自動車事故で亡くなった。
 新しく入ってきた、地方出身の3人の中で、尾原は松江の放送劇団にも少し入っていたためか、えらく芸術家ぶった風に見えた。二人の男性は田舎出の山猿よろしく、アクセントはまったく方言まるだしのでたらめ。当時は、即戦力であったため、明日から舞台に立って台詞をしゃべらなけれぱならなかつたが、「にんげん」が「に!んげん」と発音され「にんじん」がやはり「に!んじん」としか発音できないに到っては、台詞を指導していたいつも冷静な山添もヒステリックに腹をたてていた。しかし、田舎から技術を学んで帰ってこいという大命をおびて大阪まで出てきている以上、少々のことでは尻尾をまいて帰るわけには行かず、必死に汗を流して頑張った。

 この頃になると、劇団の根拠地であった吉田宅の八畳の間で稽古することも出来なくなっていた。稽古場をどこかに見つけなくては人形をもっての立ち稽古が出来ない。そこで、劇団のメンバーであった、井上圭史の親父さんが農協のボスであったので、その伝手で、田圃の真ん中に建っていた農業倉庫を借りて稽古をする事になった。倉庫には藁が倉庫半分くらい詰まっていて、その藁を片側に積み上げることから稽古が始まった。とはいうものの、もうもうたる藁挨の中で、稽古をするというより藁にまみれて遊ぶ方が面白かった。

入団者がまだ続く

 5月の終わり頃、田端精一が入団してきた。彼はこの4月に京都大学に現役で合格した大学生であった。宇治にあった教養学部に通学していたのであったが、学業より人形劇をやりたいと、大学を退学してクラルテに入って来たのであった。彼は、芦屋高校の時代に弟、妹、同級生を引き連れて人形劇団プッテを組織していた。しかし、クラルテにやってくるまでは全く知らなかった。京都大学にまで人っていながら、大学を止めてまで人形劇をやりたいという彼のファイトには、周りのものぱびっくりしてしまった。
 その頃のクラルテは、専門劇団として活動はしていたものの人形劇についてそれほど専門的な知識や技術を持った集団ではなかった。外人部隊のようなアンサンブルにもってきて、創造的な指導者もいなかったため、その度に、あーでもないこーでもないといった討論をしなければならなかった。専門的に人形劇をやっていきたいと願って入ってきた田端にとっては、思いもかけぬ様子に映ったに違いない。
 「僕は人形劇をやっていきたいのです」という言葉を残して、二カ月ももたずに彼はクラルテを止めて東京へ行ってプークに人った。田端精一も昭和六年の生まれであった。
 クラルテを動かしていたエネルギーは、当時18才の若者たちであり18グループと呼ばれていた。
 6月になって、光永弘(三輪弘)が入団してきた。彼は、全逓信の労働者で、全逓信の演劇のサークル「地協」に入って自立演劇をしていた。しかし、レッドパージにかかり首になっていた。そこで、演劇の経験を生かすためクラルテに参加してきた。社会人であり、組合のサークル活動をしていた経験からか、専門家が入ってきたように思った。

新人ばかりの新しい舞台

 5月以後に入ってきた手島、宮坂、尾原、光永をいれて、新しいアンサンプルで舞台を持つための特別訓練をした。そして、六月の下旬に大阪の周辺を上演した。

 山陽道、山口の公演。
 7月に人って山口の公演に出発した。この制作は、多治美が担当していたのであったが、あまり成果が上がらず、よたよたしている間に病気になり、小見山がピンチヒッターで山口の制作に人った。この代打が満塁ホームランを放つ結果を生んだ。
 公演日誌から、書き抜いてみよう。
 
 「7月3日(月)晴れ
 山口の朝は大阪と比較して、髄分涼しく、宿所の裏の雑木から聞こえてくる虫の音も一風変わった趣である。昨夜全員ビタミンを注射し、朝は比較的ゆっくりと寝て、昨日の汽車旅行の疲労を癒した。なにしろ、今日は山陽で初公演であるし、六月末の連日の大阪の公演は僕たちにとって、随分重労働だったせいだろう・・・
 劇団財政の問題
 これは財政責任の手島君に帳簿を確実につけ、みだりに個人的な借用を認めない事、並びに一部給料支払い等は9日以後にする。」

 と記録されているところを見ると6月末の連続公演から引き続いて山口へ出かけたことがわかる。昼間は小、中学生に見せ、夜には、山口大学のサークルの人たちや、はぐるま座の人たち、日笠山氏などと、座談会などを精力的に持った。

「7月5日
プークが東京で上演禁止されたことが知らされる。驚きと憤り。背後にたっている外帝(外国帝国主義の略だろう)の触手を感じる。とうとう来たなという気持ち。ますます頑張らなければならぬと感じる。

7月8日
光永君の舞台監督辞任 戎氏舞台監督兼任 
光永君は、自分の人形劇における経験の不十分と、静かな自己反省の時間がほしいため
以上の外に、給与前渡し500円がなされた。」

 若さからくる情勢分析の極端なまでの悲壮感と、一方ではどうでもなれといった楽天性が脈絡を特たずに共存している時代であった。極の一方に振られたかとおもうと、その瞬間に反対の極に振り戻しているといった塩梅であった。

 当時の給料は1.200円から1.800円位であった。そのなかで500円の給料の前払いがなされたというのは、この公演がいかに財政的には成功した公演であったかということが伺える。
 先にも書いたように、この公演は代打で小見山が制作し、それも劇団に入ってきてまだ一カ月もたたない彼女の初めての仕事であった。怖いもの知らずということであったのかも知れないが、それまでの制作はどちらかといえばボス交渉的に一部の人たち(組合や、教組の文化部といった人たち)だけとの話し合いに委ねられていた。しかし彼女は精力的に、自分の足でかけずり廻った。そして、彼女の叔母さんであった小見山富恵さんの援助を忘れることはできない。当時光市に住んでいて、かっては戦前の大阪で大正末期から社会運動、労働運動、婦人運動と大きな仕事をしていた人であった。岩波新書の「社会主義運動半生記」(山辺健太郎著)にもその時代の小見山富恵さんのことが書かれてある。また、はぐるま座の日笠山氏などの人の和を繋いでいった成果であった。
 7月10日の記録には、大阪の事務局から届いた劇団の方針に対して公演班の討議の結果を書いている。

「7月10日 次の5点をクラルテヘ質問する。
(1)10万円の予算を明らかにする。(2)8万5千円のノルマは不当である。(3)山添の組んだ経営の崩壊の理由について。(4)本公演の内容と財政面についてと時期の決定について。(5)八月初旬における7月分の給料の全払い
以上戎が責任をもって問い合わせする。
 ★野田高女における人形劇合評会に芳川出席、まとめ
 ☆マリオネットよりよい☆舞台装置がよい☆朗読形式より、対話形式のほうがよい(裸の王様を朗読で上演していた)☆最後の行列が宙に浮いていた。☆階段の昇降が悪い。☆王様に着せるA.Bの動作が悪い。☆レパートリーは『ハムレット』『ロビンフッド』『ウイリアム、テル』のようなものがよい」

 と記録されている。
 大阪から来た手紙が残っていないので、10万円の予算というのが、どういう期間のどの様な予算であるのかわからないが、7月8月の予算ではなかっただろうか。そして、この記録から一週間後に、歴史に残る大事件が起きたのである。

ああ!集団中毒事件発生

「7月16日
★今日は公演予定がないので、全員休養
★午前中小見山さんが来て全員班会議を開く予定であったが、お流れ。午後光永を除いて全員海に行く、体を養うにもってこいだ。2時間位泳いで引き揚げる。
★光永、疲労のためか、元気がない、栄養失調か?
★5時半、手島、胃けいれんにて苦しむ。医者を呼んで診断したが、注射一本打ったきり何もいわない、実にヤブだ。夕食後、芳川腹痛にて苦しむ。その後、戎も倒れる、光永も同じ症状である。熱は全員38度。再び医者を呼ぶ。「消化不良」と聞く。野原は11時に薬を取りに行く。氷で冷やす、大変いそがしい。
★明日公演のため、臨時A班会議を開く。小見山、宮坂、野原、戎、芳川のほか、旅館の娘さんに応援してくれるよう小見山交渉。ついに許可下りる。これで明日の公演はやっと出来るような体制だ。ただし、「百姓」「ドン太」と戎の童話に決定。
★劇団へ宮坂がレポを書く。公演中の病気は非常にさしつかえる。衛生兵はたいへんだ。自分の身体は自分で愛さなくては・・・心配しながら、午前一時就寝
  7月17日
  いよいよ、われ(宮坂)をのぞいて全員床につく。五名とも、非常に悪し。ついに本日の公演中止のやむなきに至った。宮坂、三島(当時、現地で制作を手伝ってくれた青年)小学校へ交渉に行く。やっと了解をしてもらう、大変学校側に迷惑をかけた。小見山に看護に来てもらう、重湯をのまし、果汁をのまし、大変な苦労だ。熱もなかなか下がらない。夕方になってようやく野原、光永、手島の三名はだいぶ良くなる。」

 この記録を見ると、日頃元気な若者たちが、制作の小見山以外、女性のいない公演班であってみれば、殺風景な旅班の中での慌てようと困惑ぶりが伝わってくる。旅館の娘さんまで、引っ張り出して、何とか上演しようとした上演に対しての義務感はさすがである。前日までは本当にその娘さんに手伝ってもらって上演すべく、台詞の稽古までしたのであった。
 女性のいない公演班であったので、彼女に対する入れ上げようは並々ならぬものがあって、当時ラジオドラマで人気をとっていた、「内村直也」の「えり子と共に」の主人公の「えり子」になぞらえて、彼女の事を皆は、えり子さんと呼んで、いとほしく思っていたことからも、彼女が舞台に立ってもらえなかったことは、どれだけ無念であったかと思われる。

「7月19日 皆、だいぶ、身体もしっかりしてきた。午前中は予定されていた公演が中止となったので充分に休養が出来た。台風が近づいているとの天気予報で、海から吹きつける風も一際物凄く恐ろしい雲が空を横行している。休養の形式は自由時間と同じで各人の体力に応じて自由行動。午後2時宿所の小松屋を出発。割合に軽いと思っていたリュックサックもメリメリと肩に食い込む始末。
今日の公演地は徳山鉄板である。汽車で光から約13分位で櫛ケ浜に達しそれかから約一里はなれた半島に存在する工場である。三日月星の商標で作られる商品は皆この工場の産だそうだ。櫛ケ浜から鉄板会社運転のバスにゆられて海岸に面した峡谷の様なところを走る。約一五分、徳山鉄板会社の門前に着く。今日の公演は従業員慰安の為のもので会場は自彊会鰭(月星保育園)で山のうえにある所だ。ステージコンデションは上々であり、病気回復第一回公演なので空元気をしぼり出して熱演。
動員数400、対象、工場従業員家族一般、レパ、三本。

7月22日  レポ、多く来る、早く帰れとの電報くる 海水浴
7月23日 山口県下の最後の公演、朝7時12分の汽車にて光駅出発。小見山見送りに来る。小見山は少々当地に滞在して静養するとのことなり。帝国人絹岩国工場、2回公演レパ3本共、マイクロホンを使用したため、ガァーンとがなるような声だったそうな、僕たちのセリフが後ろまで通らないという。やっぱり僕たちの基本的な話し方を練習する必要があるだろう」

 7月23日の公演を最後に、一路大阪に向かっている。
 第一回山口公演の記録
  公演日数16日(7月3日より、7月23円までの21日間)
  上演回数19回  観客数9.991名
  レパートリー  ドン太の樽や 人のよいお百姓 裸の王様の3本

劇団全体のこの頃の様子

 この第一回の山口公演は、小見山が初めて制作した仕事であって、劇団のベストメンバーで上演してほしいとの願いが強かった。当然といえば当然である。しかし、劇団の指導部は新人を多く入れた男ばかりの編成であった。この編成に強い不満を持っていて在阪とのやりとりが手紙で行われていた、その一部を書き留めておこう。

「九信受信
  今日は主に山陽班を六名にしたことについて、僕(金子)の意見を述べます。・・・去る6月26日劇団全体会議をひらいて最終的に検討したのですが『もし六名の班で芸術的にひくいなら、一班活動にすべきだ。』という意見と『芸術的には少々低くても、当面の目標として、研究所を建てるためにどうしても2班活動を行う必要がある』という意見に分かれ、討論の結果、後者に決定した。理由は小見山さんもよく知っている通り、現在のクラルテにとっては、研究所を建てなければ、必ず行き詰まるのです、20名近い人間を吉田さんの二階を根拠地として動かすことは不可能であり、吉田さんにも迷惑だし、劇団の美術的高揚にとっても、もはや抜き差しならぬ問題になっているのです。研究所建設のための第一次予算七万円程は一班活動ではどうしても生み出せません。
小見山さんのいうように、山陽班は、戎、芳川、野原の3名が古い人で、野原はアコーデオンを弾くので、戎、芳川の2人しか経験者はいなく、芸術性の低下していることはまぬがれません。けれど、それを承知の上で二班活動に入ることを要求されているのです。・・・今更6名のところに新しく一人入れても、出発の日まで毎日公演があってとても練習などできません。また、B班の古いメンバーをA班に回すことも出来ません。だから、以上の方法しかありません。小見山さんの意見を至急知らせてください。経営も最終段階に入ったことと思います。最後の仕上げをお願いします。・・・経営部費は遠慮なく使って下さい。旅館へ泊ってもかまいませんよ。      としひこ      和子さまへ        六月二八日」

 制作途中での、手紙のやりとりである。とにかく、よい芝居を持ってきてほしい、との願いに対して、劇団の現状をなんとか、抜け出したいためにとの精一杯の文面である。自分たちの力でもって、制作して旅公演をして成功した初めての仕事であった。また、この旅公演でも沢山のゴシップを残した。
 手島と宮坂が、舞台の中で、上演中に、人形をさしあげたままで、足で蹴りあいの喧嘩をしたことや、芳川がホームシックにかかって(もっぱらそういう噂であった)旅館を裸足でとびだして、駅まで夜の田舎道を駆け出していった。などなど枚挙にいとまがない。
 男ばかりの殺風景さに加えて、戎、光永の芝居をかじってきた人、クラルテの生え抜きの人、地方から出てきた人、といった混成旅団のようなアンサンブルであったことが色々な出来事を作ったのであった。
 そして、この山陽公演の制作がほぼ終わった頃、小見山に送られた手紙も書きとめておこう。
「拝啓・・・若い者ばかりの仕事ですので至らぬ点や無茶苦茶な面も多いのですが、小見山さんは劇団に加入してくださって以来本当に全てを劇団の成長のために尽くして下され、特に今度の山口県経営は、暑さの中を献身的な活動をしてくださっているよし、公演班の者からも度々通知があって全員感謝しております。・・・小見山さんの努力のおかげで八坪ばかりの小さな制作研究所を建てる見込みもたちました。・・・」

 一方往阪のB班は、以前に朝日会館で初演したままになっていた「手風琴弾きのゴーシュ」の再脚色を戎がやっていて、その再仕込みにかかっていた。
 8月2日に阪神児童会館開舘記念公演に出演している記録はあるが、何を上演したのかは分からない。 一方社会情勢は、6月25日に朝鮮戦争が勃発。共産党の非合法化、レッドパージの嵐はおさまらず、反動化の波は、日本中に押し寄せていた。

「手風琴弾きのゴーシュ」のパンフレットより

 8月人形劇団クラルテ第2回公演というパンフレット(ガリ版3色刷)が作られている。そのなかに載せられている文章を書いておこう。(画像/手風琴弾きのゴーシュ

《クラルテによせて》
伸びる研究会 貴志周平
「一寸の虫にも五分の魂あり」どんな小さな存在でも、その存在が全力をあげて生きている姿を見受けられたならば、世の中は、我知らず尊敬の念をまねくことになろう。クラルテはけっして小さな存在ではないかもしれないが、一尺の虫になって、五分の魂、全力を傾けつくさぬものは、一寸の虫の五分の魂に敗北するものであろう。こういっても私は決してクラルテに対し、警告を発しているものではない。私は私の考えることを、クラルテの皆様に聞いていただきたいと思ってこう申しあげるのでる。同じ道を歩む者として、私自身がこの道を歩みながら、独り言するのを、聞いてもらってちっとも差し支えないことであろう。

 貴志周平さんがこの文章を書いてくれたのは、まだ20の後半にさしかかった頃ではなかっただろうか。生涯現場の先生として、学校上演や、NHKの「たのしい教室」での付き合いに至るまで、なにかとお世話になった。インドの日本人学校の先生に赴任され、帰国されて間もなしに、喘息の発作で救急車の中で亡くなられた。その時、先生の奥さんはクラルテの芝居を見て頂いていたというのも、因縁めいたことであった。

クラルテに寄せて
関西教育映画審査委員 鳳小学校校長   辻  一二
まず何よりも子どもたちがたいへん喜んだことをお知らせすると共に、皆様の再来をお待ち致しております。私は映画のほうばかりやっていますので、人形劇のことはよくわかりませんが、上級生はスピーデーな映画をこのみますが、下級生にもすすめられる映画はなかなか少なく、教育映画というと何かと修身的なものでなければならないように思われていて、本当に見て楽しく、しかも内容のすぐれているものは、そうざらにはありません。
クラルテの人形劇をみて、これが今後、視聴覚教育の優れた教材として、情操教育の一たんを荷なってくれるものと大いに心強く思い、皆様方の仕事に大きな期待をいだいている次第です。

 辻一二先生は、後に浜寺昭和小学校の校長になられ、クラルテの再建後も支援していただいた。退職後は堺の教育委員会の仕事をしておられた。

京都府 間人小学校校長 山副芳男
(一)人形が象徴的でよい。
(二)出演の素晴らしい熱気が感じられる。

初めての木彫の頭の人形が登場

 8月は大阪の周辺を少しだけ上演して、いよいよ「手風琴弾きのゴーシュ」の稽古に入った。8月の暑い日、田圃の真ん中の道を歩いて稽古場に借りた農業倉庫に入ると、そこは意外とひんやりとしていて、藁の臭いがあたりに立ち込めていた。
 脚色/戎 一郎、演出/金子俊彦、美術/吉田清治、作曲編曲/北田綾子、照明/広常洋太郎、効果/手塚昭夫、舞台監督/林 保夫、となっている。手塚昭夫と林保夫は誰かのペンネームだったのか、または架空の人物を書いているのかわからない。ただしこの後に作られたパンフレットには、効果/柳瀬幸吉となっている。

 この「手風琴弾きのゴーシュ」で初めて、木彫りの人形が作られた。木彫りの人形で公演したい、という思いは強かった。しかし、木を彫るということは、まったく何も知らないものにとっては、大変なことであった。わずかに人形の手は、木で彫ったものがあったが、頭を彫るとなると大事であった。木彫の道具などは無かったし、あるのは中学生になって学校で買わされた大工道具の四分か五分の平ノミ一本だけであった。そのノミ一本を頼りに、主人公の「ゴーシュ」とその合い方の「ホーシュ」の二体の頭を彫っていた。
 桐の木はその頃はまだ大阪にも桐の下駄を作っている所があり、下駄のための桐材屋さんがあった。そこで、男物の下駄の材料の桐の木を買ってきて頭を彫った。しかし、残念ながら、9月の初日には間に含わず、初演のときに使った紙粘土の人形で初日を開けた。

 初めての木彫の頭は、その後10月にアトリエが春日出に移って、そこで完成をみた。平ノミ一本ではどうしても中ぐりが充分には出来ないので重たい頭になって、演技者には、重たいと文句をいわれた。

 九月の中頃に、全繊同盟の仕事で、鐘紡淀川と日紡都島(だったと思う)で「手風琴弾きのゴーシュ」を上演した。この作品を持ったことで、初めて、作品のうえでも自立した劇団になることが出来た。それまでは、「プーク」の脚本を措りた作品しかなかったので、例えば山陽の公演の中でも「プーク」の作品と同じですね、と言われるところもあった。
 「セロ」を[手風琴」に置き換えるなんぞの度胸の良さは、今では全く考えられないことである。

「手風琴弾きのゴーシュ」を持って京都公演

 すでにこの時期、A、Bの二班の公演班をもっていて、B班が「手風琴弾きのゴーシュ」を持って京都市内の小学校公演に入った。二条川端にあった京郭教育会館の二階の畳の部屋に泊まって、市内の小学校の公演を続けた。
 この公演の記録は見当たらない。しかし、私には忘れられない思い出がある。私はこの公演には、参加していなかった。レッドパージに始まり、朝鮮戦争になり、共産党が非合法化され、コミンホルムから、日本の共産党は日和見だと批判されたことにより、主流派と所感派に分裂した。それまでの活動から、クラルテはどちらの派閥に属するのかと主流派から査問があった。
 クラルテとしては、組織の世話にはならず、自らの足で歩み始めた時であり、どちらにも偏しないで、自らの文化運動の立場で創造の仕事をしていこうとしていた。ところが、世のなかの流れはどっちだ、といったことでもってしか許きれないといった、塩梅であった。
 その事で、私は京都の宿に出向いたのであった。そこで、自分たちの仕事(人形劇の)を大切にして行こう、そして、常に革命的な情熱は失わないで上演を大事にしていこうと話し合った。ところが、分裂した組織の一方からのことを受け入れると、片一方の組織からは反革命的だと罵られ、これでは、どうしようもないことになった。
 この結果から、ますます組織に頼る考え方が薄れ、自分たち独自の歩もうとする路線を明確にして仕事を進めていこうとする考えが強くなっていった。
 この京都公演は、山添が制作し、その時の京教組の文化部長をしていたのが、佐藤一夫さんであった。佐藤先生は後に大阪の西中島小学校に移られて、「六年一組四二名」という名作を出版され、クラルテの面倒をいつも見て頂いた、私たちにとっては大切な先生であった。

第二回 山陰公演

 京都市内の小学校公演から引き続いて、京都府下の公演、そして、そのまま山陰の第二回の公演へと続いた。この公演では、公演日誌の形のものは残っていないが、在阪の書記局との往復書簡が残っているので、ここに書きとめて、当時の姿を思いかえすことにしよう。

 「A班の諸君、我々は連絡の不備から、落ち着かない数時間を送りましたが、現在ひとまず、鳥取にて小康を得ました、御安心下さい。3日午後、野原君に送られて京都を出発、バスに揺られること三時間半、内臓がでんぐり返ったような気持ちで、山村の旅館に一泊、それでもクラルテ会議を開いて今後の公演活動の中でどのように活動方針を具体化するかについて熱心に討議した。
 四日(50年10月)6名編成の初公演をしたが、新しい意気に燃えていたためと、暗幕が完備、猫、カッコウ等の人形が一応改善されていたため、相当の成果を収め、感想録にはまた貴重な一ぺージを加えた。野原の名演技の後を受け継いだ宮坂の爺さんはまずまず無難、山陰公演中には野原の爺さん以上の名演技を期待されます。但し、女の人をさがすことは、必要度が減ったのでは決してありません。現在のレパの中に音楽の占める重要性を考えてくれれば、当然のことだと思います。多くの仕事の困難なことは推察しますが是非お願いします。
 扨 劇を終えてバスに乗りましたが、汽車の時間ギリギリなので、車中、車掌さんや運ちゃんにハッパをかけ続け、やっと和知駅から所定の列車に乗り込んだまではよかったのですが、三日夜に打った電報が、本官(多治見)に落信しているかどうか不安の種。果たせるかな、22時30分に鳥取駅に着いても、例の本官のハンチング姿が見当たりません。早速鳥取で連絡の付きそうなところを調べたが要を得ず、まったくがっかりした気持ちで、一晩駅泊まりに結論が決まり、ベンチのうえにくっつき合って、暗幕、け込み幕、袖幕、ホリゾント幕を利用して山陰第一夜の夢を結びました。
 寒さに襲われ、蚤に襲われ、ポリさんに誰何され、ルンペンと同宿、うとうとするうちに朝になっていましたが、朝は朝でやっぱり連絡がとれず、鳥取でのスケジュールはどうも中止になったらしいとのこと。とにかく芳川に米子までいってもらうことにして、まさに、その汽車が動き出したそのとき『クラルテの人ですか?』と声をかげられ、今度はおお慌てに、デッキの上の芳川に連絡。駅員の茫然と成り行きを見送る中に、意を決した芳川の見事な飛び下り、(かれの述懐によれば、新調のジャンパーのよごれるのが気になったらしいが)によって、サスペンスとスリルにとんだ、山陰到着第一報が終わった訳です。
山陰のスケジュールは、22、23日頃迄は、4月(第一回山陰公演)の成果のうえにたってほとんど同じ学校で確定している。但しそれ以後は島根が4日迄10日間程確定していない状態です。
今度は、元島根人形座の梅谷氏が(宮坂が知っている)が協力してくれていて、今朝の連絡も梅谷氏がつけ、多治美は数日後に久々にお会いする。いやはや、山陰経営は、彼独特のものです。いい意味にも悪い意味にも、・・・、以上の様な次第で、漸く我々は軌道に乗って6日から公演活動を開始する事になりました。4月以上の成果と京都以上の強固なアンサンブルを目標に我々自身のクラルテ的弱点を克服していきます。
 次にA班(人形芸術劇場)へのお願い
 僕たちの10月2、3日の休日にA班全員とうちとけて話しあえなかったのは残念でした。特に光永、茶木君とは是非納得のいくまで話したかったのです。
 何故なら、B班においては、着々と実践の中で克服されつつある問題をA班では、まだ割り切っていない様に感じるからです。僕たちが今なすべきは何なのでしょう。それは実践するのに、われわれは何が不足しているのでしょう?その足りないものを充たすにはどうしたらいいのでしょう。この素直な質問に答える我々がセクトになっていては、答えられないでしょう。もっともっと広く高い所に展望をきかすべきではないでしょうか?情勢は日に急迫し、いろんな危険を身近に感じられる時です。それだけに極めてわれわれに課せられた仕事も多難且つ重要です。僕たちは京都で「カチューシャ」を見ました。我々同様、いやそれ以上に困難な条件下に置かれています。それでも、彼らは決してひるんではいません。グングン一回毎に技術的にも高くなり、大衆により立派なものを与える意欲を失っていません。大衆はますます彼らの周りに結集しつつあります。それは「熱」以外の何物でもありません。「ファイト」以外の何物でもありません。「若さ」以外の何物でもありません。「カチューシャは大衆のもの」という偉大な前提の上にたっているからです。
 僕たちはその「熱」と「ファイト」と「若さ」があったでしょうか?あったと思います。だからこそここまで発展してきたのです。それを評価しないのは絶対に間違っています、しかし、それは我々自信感じている様に個人個人のボルシェビィキー的主体性に裏付けされた、目的意識的なものではありませんでした。
  それ故に僕たちは、わかりきったようなことから、それを実践と結びつげて討論し直しました。そして、その結論として、『クラルテは大衆のもの、クラルテは僕たちのもの、そしてクラルテは僕のもの』にならなければならないことが、わかりました。これが、逆順になることは誤りです。しかもこの結論、つまりこの根本的が基本方向の上に立ったアンサンブルの強化なしに、祉会主義を目指す芸術創造ができないことを実感として受けとりつつあります。的を定めて矢を放つことだ、的は定まっている。矢は正確に放つことだ。僕たちも決して、割り切ったとは言い切れない。だからこそ、一緒に話し合いたかったのだが、それも出来なかった。僕たちは山陰からどしどしレポを送ります。お互いに急速にアンサンブルを強化しましょう。それなしには何も出来ないだろう。
 仕事は山積みしている。練習所のこと、製作所のこと、事務所のこと、合宿所のこと、人員増強のこと、実に多難だ。A班の諸君よ、頑張れ!!我々の固い、豊かな、固性的アンサンプルこそが敵の攻撃に対する唯一の武器だ。そして、それあってこそ、大衆に守られるのだ。練習のことが気になる。しっかり練習して、これ迄のクラルテになかった、創造の喜びを生み出してほしい。諸君の健闘を期待する。
               10月5日記」

 ずいぶん長い手紙をここに書き写したが、この手紙の中に、この時代の様子が克明に書かれ、時代の様子をよく反映させているからである。つまり50年問題の始まりの時期であり、困惑と迷いがあり、懸命に劇団の中に分裂を持ち込むことなく、統一を守り劇団の専門化した間なしのところでの、活動の基盤を守ろうとすることが伺える。
 この手紙の中にある(A班『人形芸術劇場』)という文面が見えるが、この発想の根拠になっているのは、前進座が各地で上演が出来なくなったり、プークも日本中央人形劇研究所といった別の経営体を作ったりする中で、やはり劇団防衛を真剣に考えなくてはということになった。
 朝鮮戦争のさなか、集会、デモは全国的に禁止され、共産党は非合法化されるなかで、「クラルテ」という劇団に妨害が入ってきても、「芸術劇場」という名前の劇団で上演を確保しようと考えた結果である。
 しかし、手紙では、勇ましいことが書かれてあったが、実際には劇団全体の活動は衰退を余儀なくされていった。当時、女性の役者は北田と尾原の二人だけであった。その一人である尾原が突如として、劇団へ来なくなった。後でわかったのであったが、組織のレポとして地下に潜って活動をしていたのだ。