再建へのあしどり
風薫るメーデー(1955年5月1日〕
クラルテを再建するためには二年間という時間を限度にしなければ、再び人形劇の火をともすには段々に難しくなるだろうと誰もが思っていた。しかし客観的に見て、人形劇団クラルテを再建することは並み大抵なことではないこともわかっていた。しかし何かロマンのような、もしまた自分たちの劇団を持てるのなら、といった憧れに似た、幻想のようなものは一度クラルテの仕事に足を突っ込んだことのある者は、誰もが感じていた。
それで、ちょうど二年目のメーデーの日、5月1日は幸いなことに日曜日であったので、それまでの劇団員に連絡をして一緒にメーデーに参加した。その頃、華房ははやくに劇団東芸はやめて、京都の白河にあった、○○先生の精神薄弱児の施設に勤めていて、その後、大国町にあった難波学園の施設の仕事をしていた。それで、メーデーの後、その場所を借りて集まりを持った。写真にも残っているが、参加者は芳川、宮軒高夫、宮軒雅彦、北浜文、野原、渡部、華房、吉田津二、吉田定雄、吉田清治、以上の九名であった。
ここで、クラルテの再建をどうするかということが話された。とくに名案といった案があるわけではなかったが、とにかく夢でもいい、何か再建へ行動を起こしていこう、ということになった。
そのためには、まず先立つものがいるということになって、それぞれが、その時持っていた財布のなかから、いくばくかのカンパをした。芳川、宮軒高夫、雅彦、北浜、野原、華房、芳養武夫それぞれ100円、吉田清治、吉田定雄それぞれ1.000円、吉田津二、30円を出した。そして毎月会費として、一月100円の会費を集めることを決めた。その会議を開いたメーデーの帰りに私は、難波にあった、桐材屋さんに寄って、その頃はまだあった、下駄材の桐を一足分360円で買って家に帰っている。
劇団再建へ動き出す
1955年10月クラルテ再建三人委員会をもって、最終的に劇団再建の具体的な成否を検討している。三人委員会というのは、北浜、芳川、吉田の三人である。北浜は第一次クラルテのお終いの頃は、松江に帰っていて、松江でマリオネットの劇団を作って活動を始めていた。私のところにある資料によると、一九五四年四月の新聞の切り抜きがある。見出しは「新しい人形劇へ、松江で糸操り人形研究発表」とあり、本文を書いておこう。
「大阪市ペイノー人形劇研究所では糸操り人形をもっと童話の分野に取り入れ新しい人形劇をうちたてようと研究を続けているが、同研究所員松江市母衣町出身の北浜文君(27)尾原波子さん(23〕らのグループが17日午後3時から松江市白潟小学校でその研究発表会を開いた。この糸操り新人形劇は背丈約50cmの人形を10本から15、6本の水糸でテープレコーダーの録音にあわせて操るものだが、従来の影絵、手使い人形と違って動作も大きい。それだけに操作は難しく、ことに新しい人形劇であるためあくまでも独創的な演技を開拓しようと努力している。17日は「和尚さんと小坊主」「三つの願い」の二幕を上演したが手使い人形より迫る調子でよい子らを感心させた。北浜氏は今月中希望により県下の小、中学校を巡演するといっている。」
「写真は『三つの願い』の一場面」
この新聞の記事から北浜は尾原と二人で、糸操りの芝居を作って小学校公演をやりかけていたことがわかる。しかし糸操りがうまくいかなかったのか、1955年に入って、北浜は一人で大阪に戻り、吹田に住んでいた坂本一房さんの家の軒を延ばして、間口は半間、奥行き1.5間といった、潜水艦の中のような所を住家として暮らしていた。
また「テープレコーダー」云々と書かれてあるが、その頃はまだ「東通工」という名前の会社(後にソニーとなる)が、初めて市販したテープレコーダーで、ずいぶん高い値段がついていた。それを持って、吉田宅に現れて、一晩大いに遊び驚き、なんと凄い機械ができたものかと感心させられたことがあった。
三人委員会のメモでは、
「常任活動に入る日時を決める。そのために本年中にやらなければならない仕事、人(劇団員)を集め教育しなければならない。金を集めなければならない。稽古場(仕事場)を確保、西田辺保育園が候補に上がるが、場所的に不便。合宿所を確保しないと、仕事のノーリツ、経済が許さない、合宿所については、芳川の家をあて、彼のお母さんに一枚加わってもらう。」
合宿所としての芳川の家は、吉田宅が親父さんが死んで、当時は相続税が高くて払い切れないこともあって、香里園の家を引き払って南加賀屋の現在の美術の仕事場に越してきた。そこから、知り合いが持っていた玉出の小さな土地に家を建てて引っ越した。それで、南加賀屋の家が空き家になっていた。
ちょうどそのころ、芳川の住んでいたアパートが繊維組合の建物で、そこがなくなることになって、引っ越し先がなかったので、さしあたってこの空き家に入ってはどうかということで引っ越してきた。
差し当たってその家を、と言っても芳川が住んでいたのは、一階の六畳一間と土間になっていた台所だけだった。二階は家が傾いていて八畳と三畳が二間あったが、八畳の間以外はほとんど、雨漏りなどで住めるようではなかった。でもそこを合宿所にすることでしか、劇団の将来は考えられなかった。
(画像/「三匹の子豚」1955年)(画像/新調された「三匹の子豚」の人形)
再建初日を決定する
11月に入って、三人委員会は第一期クラルテ再建計画を決定する。
23日北浜、芳川、吉田は芳川宅に集まり、
「1月20日を初日として仕事を進めることを決める。そして12月中に舞台の資材と作品の人形道具を完成させる。人材はアコーデオン弾きを探すこと。研究生として松沢喬、吉田津二、尾原なみ子を入れる。(参加したのは松沢のみであった)
予算として、舞台製作費 一万円、幕類 一万五千円、照明器具 一万一千二百円、効果 一千円、セットスタンド 五千円 宣伝費(年賀状を合む)四千円、交通費 八千円、通信費 二千円、人件費 12月 五千円、1月 一万五千円、仕込み予算 「三匹の子豚」人形 九千円、セット、三千円、小道具 一千円 計 九万五千二百円と雑費五千円、
合計十万二百円
収入はすべて借入金でまかなっている。借入は金子3万円、多治美1万円、宮軒1万円、松本1万円、吉田定雄2万円 計8万円
この借入金の中で、多治美に渡した借用書の写しが書き残されている。
「借用書 一 金一万円也 右金額正に借用いたしました。1956年2月末日より同年11月末日までに返済することを約束いたします。1955年11月22日 人形劇団クラルテ 吉田清治(印) 多治美成英様 」
芳川のお母さんを抱き込んで、クラルテの再建を画したのであったが、お母さんは第一次の終末の頃の貧困が忘れられず、どうしても、人形劇をやらせることには反対であった。それでも再建の計画が進んでいくので、自分たちの住んでいる家の大家が吉田宅であったので、ある日吉田の宅に現れ「何としても、うちの子(芳川〕には人形劇の道に誘わないで欲しい」といってきたこともあった。
11月27日劇団会議を開く、場所は難波球場の中にあった劇団五月座の稽古場を借りる。五月座は大阪にあった新劇団が3つ合同してできた劇団で、金子がその劇団のなかの大阪小劇場の演出部に入っていたので、そのまま五月座の劇団員でもあった。そのつてでその場所を借りた。できればクラルテの稽古場もそこを使わせて欲しいと思っていた。
集まった人は、金子、華房、渡辺洋子(華房夫人)、手島(東京から参加)芳川、北浜、松沢(大阪人形座にいて、少し北浜と仕事をしていた、もとは坂本一房さんと同じ、街頭紙芝居をやっていて坂本さんを通じて知り合う)吉田、以上八名
話し合われた内容は、
★五月座の稽古場を使えないか?五月座は又貸しはしないとの一札を入れているし、夜は研究所をやっている関係上無理、仕事場としても使うこともできない。
★手島のクラルテヘの復帰は、プークヘ1月1日に復帰できるよう要請の手紙を劇団として送る。もし駄目な場合は、初日を目標に、1月10日から二週間だけでも参如してもらえるよう要請する。
★松沢喬は12月1日付けで全面的に参加してもらい、その仕事については吉田が責任をもってあたる。
だいたいこのようなことが話され、決定された。
しかし手島のクラルテヘの復帰に関してプークヘ要請をしたが、彼自身もクラルテヘ復帰したいと考えていたのであったが、プークの委員会を代表して川尻さんより返事が来た。それによると、
「いま手島は技術的にも、創造的にも、一番大切な時期にあって、せっかくここまで培って来た能力を、今クラルテに戻るのはもったいない、もう暫くプークで勉強をして見通しを持ったところで、帰す」
といった返事が来て、手島自身もそのことを了承し、クラルテヘの復帰も、またこの事期での一時の手伝い参加をすることはなかった。
11月30日には芳川、北浜、松沢、吉田の四人で会議を持っている。吉田津二が欠席になっているところをみると、彼も、再建クラルテに参加することになっていたのかもしれない。この会議では、12月18日に堂島の喫茶店「ムジカ」でコンチエルト、エストラーダの上演が決まったことが報告されている。このコンチエルト、エストラーダというのは、そのころ、ソビエトロシヤのモスクワ中央人形劇場のセルゲイ・オブラッオフが書いた自伝的出版物の中にこの名前が出てくる。それから、一般的にはボードビルと呼ばれる形式の舞台と同じであった。
再建の挨拶状
「長らく御無沙汰しました。お変わり御座いませんか。私たち人形劇団クラルテが、創造面からも専門劇団として仕事ができなくなり、休演しましてから、3年の月日が過ぎて仕舞いました。
1948年11月、ささやかなクラルテが首途しましてから、休演しました1953年の春までの5年間、絶えず微力な私たちを励まし、力づけて下さった皆様の御陰で、東は北陸から、西は九州の果てまで明るく健康で、底抜けに楽しくなる人形劇の光を灯し続てて居ました。しかし個々の専門的な力の不足、年齢的にも若すぎた幼さから、その創造面に於いて、脚本の貧困に悩み、俳優を十二分に育てることができず、ついには、経済的にも行き詰まって、その光を一時的にせよ消すことになった時、クラルテの歌に親しみ、私たちの訪れを首を長くして待っていて下さった子どもたちや、育てて下さった皆様のご好意に応えるためにも、必ず近い将来に、再びクラルテの光を灯そうと、悲しみの中に、希望と確信を持ったのでした。
それ以来3年、愛する人形たちぱリュックサックの中で眠り、時々取り出して見る私たちにたえざる励ましを、ともすれば荒波に押し流されそうになる私たちを元気づけてくれました。そして陰になり日向になり支援して下さった皆様のお力で、クラルテの新しい光を掲げる日が、再びやってまいりました。
3年の空白を埋め、更に前に進むために、まだまだ力たりぬ私たちではありますが、近来とみに文化運動の高まって来た大阪の風土の上で一歩一歩堅実に仕事をして参りたいと思います。クラルテの新しい出発をここに皆様にお伝えし、以前に変わらぬご厚情とご支援をお願い致します。
1955年11月 人形劇団クラルテ」
そして追伸としてつぎの文章が残されている。
「追伸 新しい出発に当たって、皆様の厚いご支援に深くお礼申し上げると共に、今直面している劇団員と資金の問題を訴えたいと思います。休演の止むなき至ったとき、私たちは肉体的にも、精神的にも、経済的にも全く疲労困憊しておりました。私たちは2年間それぞれの分野で勉強し体を平常にもどし、経済的建て直しをし、もう一度必ずクラルテの幕を開こうと約束しあいました。しかしそう約束はしたものの、果たして誰がこの苦しい人形劇の仕事に帰ってくるだろう、約束は単なるカラ元気ではないか、解散という言葉が敗北という言葉になって聞えてくるものへの、反発に過ぎないのではないかと私たちは自身反問せざるをえませんでした。
3年間、たしかに3年間、私たちは四苦八苦しました。クラルテの青年たちは何処へいったのか?やっぱり駄目なのか、正業について働く方がよい、人形劇などという道楽は止めておけ、それは趣味としてすべきものだ。タオル屋に鉄工所に、そのまま肺病で入院してしまった人、印刷屋で、看板屋で、幼稚園で、或いは東京の新劇団や、人形劇団プークヘ行った人・・・
3年目、もう一度、クラルテの幕を開こうと、その職場を離れ帰って来ました。帰れなくなった人たちの、帰ってきた私たちに送って下さる限りない激励と援助、応援して下さる沢山の支持者、今こうして帰って来た私たち たった四人の力でも、新しい人たちの参加によって、新春早々クラルテの幕を上げることができるようになりました。
しかし、私たちの力は残念ながら休演以前よりずーっと微弱です。私たちぱ最善の努力を尽くし、人形劇の限りない未来を開こうとする熱意に燃え、再びクラルテの幕を閉じぬ決心です。私たち、再出発の資金と、人形劇に情熱を持つ人たちの積極的な参加を、広くお願い申し上げる次第です。
1955年11月 北浜 文、芳川雅勇、宗方真人(手島)、吉田清治、大阪市西成区姫松通り四ノ十七
吉田清治方 人形劇団クラルテ」
以上が、再建に当たって発送された二通の文書である。
再建後初めての試演会
1955年12月18日北区の曽根崎新地の一つ南の筋にあった、喫茶店「ムジカ」で2時から「人形劇団クラルテ公演エストラーダ」を持った。
喫茶店「ムジカ」のオーナーであった堀江さんは、以前第一次の時に発表会を開いた道頓堀の場外馬券売り場を紹介してくれた、喫茶店「ドガ」の鷲北さんの紹介で借りることができた。
その時の案内から書いておこう。
「ムジカの仲間」人形劇団クラルテ
秋の木の葉の散る公園に、簡単な額縁のついた舞台が立ち道化者の人形が泣いたり笑ったり、太い棒でお役人の頭をコツンと叩いたりして飛び回っているのを、子どもたちは無心に笑いに興じ、大人たちはベンチに腰掛けてニコニコ見ている。以前ニュース映画に出て来た楽しい一コマですが、イギリスでは、パンチとジュデイ、ドイツではカスパー、フランスではギニョールと外国の人気者たちはそれぞれの愛称を昔から持って、街角で、公園でそして人形劇場で活躍してきました。ヨーロッパ諸国では、遠くゲーテがファーストを人形芝居からつくり出した頃からそれぞれ民族の特色を盛って民衆の間に伝承され、今日まで生き生きとその生命を輝かせています。・・・(中略)1948年春、学生ばかりで発足しました私たちは、字引の中からフランス語で、光、即ちクラルテという名前を選び、人形劇の未来に絶えざる光を灯し続けようと劇団の名前にして以来5年間、素人ばかりの集団に、演劇分野の経験豊富な人たちを加え、地方から情熟を燃やして集まった人たちと共に、人形の入ったリュックを担い同じ釜の飯を食い、苦楽を共に分かちながら西に東に歩み続けました。しかし若い私たちには余りにも強い経済的な圧迫と、専門家としての勉強不足から、他の多くの劇団と同じ様に、荒波に疲れきって没し去りました。けれども、クラルテは何時までも灯台の光の消えぬ如く、私たちの胸を去りませんでした。そして3年、一生をこの仕事に打ち込もうと再び、人形を諸手に皆さんと一緒に、笑い泣き、歌おうと思います。・・・」
と喫茶店ムジカのレコード演奏のプログラムの挟み込みに謄写版で印刷されている。翌日の夕刊紙、「国際新聞」に次の記事が載った。
「若々しい気風乗せて、人形劇団『クラルテ』再出発」の見出しに続いて
「?子どもにもおとなにも健康な笑いを?と人形劇団クラルテが再建され、その門出を祝う試演会が18日午後、大阪北区M喫茶店で開かれた。去る4日開かれた本紙談話クラブ第三回の集いで紹介されたのが機縁となり談話クラブの会員をはじめ約50名が集まり、エストラーダ(高座形式による風刺的演芸)「恋路」「食欲」「奇跡」の三幕が上演されヤンヤのカッサイをあびた。「クラルテ」は終戦後23年8月、大阪住吉区姫松通、吉田清治(当時一八)ら五、六名の若い人形劇研究者が集まって結成したもので、関西、九州、四国の各学校を巡演、関西の?プーク?とまでいわれたが、資金難で去る28年秋解散、当時十五、六名の団員は東京のプークへ、あるいは工場へ、会社へとちりぢりになってしまった。ところが最近、大阪府立社会事業短期大学や大阪学芸大などに人形劇サークルができたり芦屋の七松婦人会にお母さんばかりのサークルが生まれたり、プロ劇団『大阪人形座』『つくし座』などが活躍しはじめたり関西各地で人形劇熱が高まってきたので『クラルテ』再建も本格化し、ついに吉田君や元団員北浜文(29)らが中心となって再発足の運びとなった。」
この試演会には中原が賛助出演して、「恋路」の『かなわぬ恋』と『ダンカングレイ』の二つの歌を歌ってくれた。
「食欲」はぬいぐるみによる表情人形、「奇跡」はライオンに食べられてしまう調教師の話で共に、オブラッツオフの自伝の中からいただいたものであった。とにもかくにも、試演会を開いたことで社会的に、クラルテの再建を認めてもらうことができた。
この頃は仕事場がなくて、玉出の吉田宅の私が寝ていた地上1.5mのベッドのその下の空間が仕事場でなにもかもそこで作られていた。
試演会が終わって、ただちに「三匹の子豚」の仕込みにかかった。12月の31日にようやく人形ができ上がり、1月の5日から稽古に入るというスケジュールで1月22日に「三匹の子豚」と芳川の童話で今川学園で上演している。この時は、荷物を運ぶのに、運送屋を雇うお金がなかったので、成山さんの家にリヤカーがあったのを、その頃はもう使われていなかったので、それを借りて、自転車で引いていった。
配役は誰であったのか、記録がないが音楽は野原が担当している。豊崎が高校の卒業前であったが、学校へ行かなくてもいいというので参加していた。そして、杉浦と新井というのがごく短期間参加していたが、その後どうなったかは明らかではない。
1月23日に劇団会議を開き、これからの経営問題並びに劇団の体制について検討している。「三匹の子豚」ともう一本のレパをどうしても持たなければ学校上演は困難である。1月末の借金の返済をどうするか。再建第一回の公演「孫悟空」をどう仕上げるか、といったことが、議題になっている。1月29日上六のなにわ荘でクラルテを励ます会がもたれた。
2月3日に思斉養護学校で上演をし、17日には農林中央金庫の組合で上演をした。
3月1日中央公会堂で第8回保育所ひなまつりに2回公演、8日柏里小学校と上演がなされた。
この頃に川北斐佐子、山根宏章が入ってきた。
劇団体制の整備
クラルテを再建するに当たってまず考えたことは、第一次の活動のあり方と、創造に対する考え方の問題についてであった。前者の、活動のあり方は、第一次の時は大阪での上演が難しいということだけで、地方にその活路を見出していた。大阪を根拠地としながら、大阪の人たち、つまり観客には何一つ芝居を見てもらうということがなかった。再建に当たっては、大阪という地をどんなことがあっても留守にして、仕事がないからといって、地方に出かけていくということはしない。それは、地方を軽く見るといったことではなく、大阪を食い詰めて、どさ回りはしない、ということであった。このことは当たり前のことでありながら、第一次のことから考えると、よほどの覚悟が必要なことであつた。
二番めの創造に対する問題は、やはり、技術者としての専門家が育たなかった。人形劇は特に人形を作るということから、職人的な高度の技術をもって舞台を作ること無しには、観客を納得させる専門劇団としての人形劇の舞台を作ることはできない。演技者においても、その演劇的技術は他のジャンルの演技者に劣ってはならない。
そのような再出発にさいしては、無いものねだりの、理想を指向した、その考えはよいとしても、劇団のアンサンブルは生き物の人間が作っていくもので、理想的には進まなかった。
1月新年の総会でそのことが早や問題になつた。
「劇団活動における劇団員と研究生との溝について、
★舞台上にアンサンブルが必要なものである以上、劇団活動は全員の理解と信頼の上に立ったものでなければならない。
★劇団の組織を民主的にしなくてはならない。劇団員も研究生も同一に劇団に対して権利と義務を持つものでなければならない。
★劇団委員会が独裁的に劇団運営していることに問題がある。・・・」等々、劇団を再建するということでの焦りは、委員会を構成している一次のメンパーにはあった。新しく入ってきたまったく未経験の人たちは、自分たちの未熟な部分はすべて委員会が指導してくれないことに問題を持った。そして、これから劇団の問題は、しばらくアンサンブルが劇団会議の議題の主流になっていく。
仕事場をどこかに確保したいと物色していたが、都合良くそんな場所があるわけはなかった。それで、合宿所として吉田家から借りていた芳川の家を改造して、仕事場にすることになった。100年近く前に建った古家だったので、土間があった所を少し軒を延ぱして板の間にして、そこを作業場にした。 合宿所には芳川、北浜、松沢、山根の四人が入っていて、吉田、豊崎、杉浦、川北は通いであった。
再建パンフレットNo.1
編集 北浜、川北、レパートリー紹介 芳川、松沢、表紙デザイン 吉田、という役割分担で、パンフレットを作っている。表紙はクラ吉と呼ばれた、マスコットの男の子と犬の人形の写真を真ん中にしたデザインで三折りの一枚ものである。
中身を紹介しておこう。
「クラルテの生い立ち、光をかかげて、敗戦後、かってない勢いで我が国に人形劇運動が広まった時、この新鮮なしかも不思議な魅力のある芸術にとりつかれ全国にかなり数多くの人形劇団や研究会が生まれました。人形劇団クラルテもその中の一つとして1948年2月に生まれた若い劇団です。・・・世の中の全ての人と、この芸術の光をわかちあいたいと思い、ファラデーの『皆さんの全命が蝋燭の様に長く続いて世の明るい光となり、皆さんの行動が蝋燭の炎の様な美しさを示し、皆さんは人類の幸福のためその義務の遂行に全生命を捧げられんことを望む』という言葉に応えたいと決意し、それから大阪を中心に、北は北陸から、滋賀、京都、西は、九州、中国、四国、一円の学校、工場をかけまわり、明るく健康で、底ぬけに楽しくなる人形劇の光を灯し続けてまいりました。しかし専門的な力の不足、その創造面に於いて、脚本の貧困に悩み、俳優を十二分に育てることができず、ついには経済的にも行き詰まって、1953年春、専門劇団としての仕事を続けることができなくなり休演の止むなきに至りました。・・・3年の空白を埋め更に前へ進むために、まだ力足らぬ私たちでありますが、近来とみに文化運動の高まってきた大阪の風土の上で、一歩一歩堅実に仕事をして参りたいと思います。クラルテの理想と決意が、本当に実行されていくのはこれからです。『光をかかげて』進む私たちの希望と情熱に対して、全国の皆様の絶大なるご支援とご鞭撻を切にお願い致します。」
と再建への足取りと新たなる決意を挨拶として書いている。
レパートリーとしての紹介は
一、「孫悟空」〈霊感大王の巻〉3慕7場、脚色 吉田喜久雄(定雄)、演出 北浜文、濃原勇(野原以左武)美術 吉田清治、音楽 中山武志、操作指導 芳川雅勇、
二、「人形劇によるコンチエルト、エストラーダ」
三、「三匹の子豚」の三本がのせられている。
このパンフレットを大阪のすべての小学校に発送した。その時同封した舞台図がかかれた案内からその時の舞台の様子を書いておこう。
「人形劇上演ご案内、要項
◎劇に登場する人形は、身長1米前後で、この大きさは現在の両手使い形式の人形劇では、移動し得る最大の大きさであります、
◎舞台には色彩照明使用のため、電源はできるだけステージに近接しているのが都合良く劇団側では、舞台より電源まで30米のコードを用意しています。全電力使用量は、100Vx30A 30kw/h
◎舞台組立所要時間、約1時閲、舞台準備は総て劇団側で行います。
◎舞台の大きさ、下図の様に舞台の大きさぱ、間口、3.6m、高さ、2m、尚 教室ぷち抜き会場でも、舞台の高さが加減できる様設計してありすから設営は可能です。
◎会場の窓は可能な限り暗幕で遮蔽しないと、照明効果が上がりませんので、暗幕設備をして頂きます。但し暗幕は正式のものでなくとも間に合わせのもので結構です。
◎舞台関係荷物はオート三輪1台分です。尚アンプ、マイクの準備は不要です。
◎一回の観覧人数は、1千名は可能
◎上演料 1万円
◎劇上演後、座談会等、短時間でも種々話し合いができるようにしたいと思います。
人形劇団クラルテ、違絡先 大阪市住吉区南加賀屋一六、芳川方」
となっている。この文からその時代の姿や劇団と、学校の様子がうかがえる。
三越劇場で第一回発表会を持つ
3月25日大阪三越劇場で第一回の発表会を持った。12時と3時の二回公演をしている。大人80円、子ども50円の入場料であった。当時は入場税が高く、免税点は30円であったので、当然入場税を払わなくてはならなかった。50円の額面に対して20円の税金を払わされた、そこでなんとか税金を払わないで済ませるために、会員券と切符に印刷したりした。
上演作品は「三匹の子豚」「表情人形による、エストラーダの試み」そして、メインの作品であった「孫悟空」の3本立てであった。なんといっても「孫悟空」では、音楽に大阪コンサート・オーケストラの有志特別出演と、ヴオルガコーラスの特別出演をしてもらったことである。
コンサート・オーケストラというのは、当時大阪にあったアマチュァのオーケストラで掛川さんというコンダクターがノーギャラで出演してくれた。20人近いオーケストラに同じくらいのコーラス隊を三越劇場の狭い舞台裏に入れての芝居であった。
芝居の評判はなんといっても、「三匹の子豚」が面白いということであった。孫悟空は何度か本を書き直したり、演出上で、テキスト、レジーを試みたりしたものの、やはりその当時の創造的な力量でこなしうるものではなかった。
しかしすぺての力を出し切って、この発表会をやって、放心状態になった。
「25日の発表会の劇団としてのこの時点での頂点を目指したが、今は、次の仕事への谷間となっているようだ。問題はこれからどの様に、劇団全体の活動を高めて行くかにある。4月2日からの四日市の公演までに今の気分(谷間)を持ったままであるならば、四日市の公演が輪を書いて、新しい谷間を持ち込んで来る恐れがある。一応成功裏に終えることのできた発表会の成果と批判、一人一人の整理を次の仕事へ、そのために演技者としての突っ込んだ討論をやる必要がある。」
と発表会の後の記録にある。
この四日市の公演は、石原産業という、四日市の大手の工場の組合の家族慰安会の仕事であった。4月2日から5日までの3日間、一日2回乃至3回の公演であった。「三匹の子豚」を持っていった。晩の公演があって、夜遅くに宿、といっても、会社の寮の広間であったが、その時間には何にも食べるものがなくて、みな腹が減ってひもじくて寝られない。外へでても何も店やもないところであった。しかたなくせんべ布団にくるんだが寝られない。若いときというのは腹が減っていると寝られないものであった。わたしは、いたずらに、口だけを、くちゃくちゃと音がするように動かしてみた。すると皆が聞き耳をたてたのがわかった。こんな時必ず、引っ掛かるのは誰もが信じることのできる芳川であった。「なにたべてるねん」というので、わたしは枕元で寝るまでの間にマジックインクで何かをかいていた、そのマジックインクを彼に渡した。かれは真っ暗な中だったので、そのまま口に持っていって吐き出した。一時の笑いが皆の喉から聞こえたが、また侘びしい空気が流れた。そんな寂しい公演であったが経済的には大いに助かった。
第一回の発表会の収支が残されている。
収入 84、150円、支出 44.338円、残高 39.818円、税金の払戻し 1.730円、残高合計 41.548円となっている。ここにある税金の払戻しは、当時は入場税は、切符の枚数だけの税金分を先に収め、そして、税務署の判子をもらわなければ、切符を前売りすることはできなかった。その前納金に対して、残った切符を持っていって、精算して払戻してもらった金額である。
3月30日と4月1日 二日間にわたって劇団委員会を開く。
議題は
★劇団活動に於ける新しい気風について、劇団委員のもつ役割と態度
★劇団構成員の資格認定
劇団構成員の資格は、劇団員、北浜、芳川、吉田、松沢(4月1日付け昇格)
研究生、豊崎、山根、川北、
杉浦の進退問題は、近日中に話し合いの上決定する。若狭の入団は彼の音楽的技術に付いて検討した上、話し合う。
新レパ、筒井敬介作、「バンナナと殿様」を仕込む、著作権については先方へすぐに問い合わせる。そして、4月2日にクラルテ会議を開き、劇団委員会の報告、川北の劇団活動を続けていくうえで経済的な問題から合宿入りを決定。そのために、合宿所を整備、改造しなければならない、ことを決める。「バンナナと殿様」は仕込まなかった。
6月15日、道頓堀、戎橋北詰め西入る、「茶室 ドガ」で55年の12月に[ムジカ」で上演した「コンチエルト、エストラーダ」と銘打った小品の上演をしている。
「ご案内 夏の盛りも間近に控え、お忙しい日々をお過ごしのことと存じます。人形劇団クラルテも新しく仕事を始めましてから半歳を数え、人形劇の普及と高揚のために微力を傾けております。偖、この度 茶室ドガのご好意により、人形のパントマイムによる小形式の人形劇の夕べを催すことになりました、クラルテが、再建以来、実験的に試みてまいりました皆様方のレパートリーでございます。どうぞ御ゆっくりとご覧下さいまして、いろいろご批評下さいませ。
レパートリー(コンチエルト、エストラーダ〕
一、二つの民謡による恋のエチュード「恋路」かなわぬ恋、(ドイツ民謡)ダンカングレイ(スコットランド民謡)独唱 中山武志
二、表情人形によるエチュード、「食欲」
三、サーカスのあるライオンつかいのエチユード「奇蹟」
午後8時より9時まで、右の通りご案内申し上げます。」
そごう劇場での公演
心斎橋のそごう百貨店の7階に劇場があって、そこで子どものための演劇をやってほしいという企画があって、神戸の道化座、制作座、ともだち劇場、クラルテなどの関西の劇団で上演することになった。
8月26日「大クラウス・小クラウス」で初めの公演を持った。人形劇一本の上演では時間的に短いので、チエコの人形映画を抱き合わせて映写した。イルジ・トルンカの「のみすぎた一ぱい」とチルロバの「おもちゃの反乱」であった。この映画(人形アニメーション)の素晴らしさには、目を奪われた。
肝心の、「大クラウス・小クラウス」の批評は新聞から書いておこう。
(画像/「大クラウス・小クラウス」)
「誇張を忘れた演技、人形劇には糸であやつるマリオネットと手で操作するギニヨールの二形式がある。日本で採用しているのは後者の場合が多いが、この劇団もギニヨールをあつかっている。普通の芝居とちがってこの人形劇は、独自な演劇形態を必要とする。なかでもそのあつかう人形の?顔?が大きな部門をしめているものだ。人物の性格を出し個性を要求する。その点この劇団の場合、表現に不足があった。とくにその『大クラウスと小クラウス』の中で大クラウスの顔などズルサを出そうとするあまり変なものになってしまっている。アンデルセンの童話から脚色したこの台本は情け知らずの大金持ちと愉快な貧乏人の同じ名前のクラウスがまきおこす機知にとんだかけあいと行状記でよく知られているものだが、十分にその面白さを描き出したとはいえないようだ。その大きな原因となっているものに劇場の広さに対する理解不足がある。あまりこまかい表現に意をそそぎすぎたため大切な?演技の誇張?がなく、観客に考える余地をあたえず、表現しようとする意図を知らせなかった。しかも同じようなくりかえしが多すぎたこともその一因であろう。人形劇の歴史の浅い劇団でここまでもってきたことは大きな成功であるが、人形劇ほど洗練されたものを要求するものもすくないことを理解する必要があるのではないだろうか。(千〕 二六日 そごう劇場」
そごう劇場での上演はその後、10月14日に「バカな子ねずみ」と「三匹の子豚」を上演している。バカな子ねずみは、マルシャークの子どものための詩に、中山武志(中原敏雄)が作曲して、男声四重唱をバックに音楽劇として上演した。
三匹の子豚のスタッフ、キャストを書いておこう。
作 山添哲、演出 吉田清治 北浜文、美術 吉田清治、音楽 濃原勇(野原以左武)、
配役、大豚 山根宏章、中豚 芳川雅勇、小豚 豊崎利子、狼 松沢蕎士、母豚 河北斐左子、
同時上映の短編映画は、やはりチェコの人形アニメーションで、「水玉の幻想」イルジ、トルンカの作品で、ガラス細工の人形を使って幻想的な世界が見事に作られていた。もう一本は日本の人形アニメや「瓜子姫とあまのじゃく」であったが、何かの手違いで、上映できなかったように思う。ちなみに入場糊は30円であった。この料金は、税金のかからない、免税点であった。
(画像/「きつね殿様」1956年)
再建パンフレット、N0.3
8月1日の日付で再建特集のパンフレットを印刷している。表紙ともで、B五版、20ぺージの初めての活版刷の印刷物である。表紙は当時、大丸の宣伝部にいた沢野井信夫さんの下にいた坂田さんに描いてもらったのですが、タイプトーンの縦の線で手だけがデザインされていたもので、どうも人形劇団のパンフレットの表紙のデザインとしては思わしくないということで、文字と人形を書き込ませていただいた。中味は「生きている劇人形」という題で北浜文が巻頭言を書いている。
「今では大分様子も変わって来たが、「人形劇」等というとケゲンな顔をする人が多かった。そして、思い当たったというふうに「ああ、人形芝居ですか」と、その人たちには「人形劇」という言葉に何か無縁な代物であり、人形が俳優として舞台に登場する態を想像することはよほど難しかったものらしい。あたりまえのことなのだが、人形はやはり人形であることから出発しなければならない。人形劇は人形が俳優であり、展開される舞台の中で「俳優である人形」が中心である。劇の中で動き廻る「俳優である人形」は、その生まれ出たときから二つの制約を所有している。即ち、外的形象に於いては、より直接それを形造った者の意志によって、役柄としての性格を植えつけられて生み出され、そのかぎりでぱ固定的である。又、演技表現に於いて、構造は「人形である機構」を度外視することは不可能である。この本来自らの意志で動かない物体である人形は演技者の手をかりて初めて動きを持つ。綿密に創り出された人形は、付加されたその性格に生きているものであって、他の「物象」にとって変わることの不自然さを強要するならば、たちまち色あせてしまう運命にあるといえるのではなかろうか。・・・」
とかなり、抽象的な論理を一ぺージ全部にわたって書いている。北浜はこの再建記念号の冒頭を飾る文章を書くのに、毎晩毎晩頭を冷やしては、何日もかかって書いていた。彼のそれまでの人形劇に対する思いと、情熱が込められている文章である。
その下棚には劇団員の連名が載せられている。
ABC順 華房良輔、河北斐佐子、北浜文、松沢喬士、宮坂輝男、村松茂宏、豊崎利子、山根宏章、吉田清治、芳川雅勇、以上が劇団員
一行空いて、特別劇団員(準劇団員)の名前が載せられている。
芳養武夫、井上圭史、小見山和子、宮軒高夫、中山武志、濃原勇、須田潤、山本玲子、以上がかかれている。
芳養武夫はデザインをしていたが、再建の時に、会費を払って、自分も何かやれることがあればやってみたいという思いを持っていたので、ここに名前を載せた。
上演レパートリーが次の頁にある。
「大クラウス・小クラウス」スタッフ、原作 アンデルセン、脚色・演出 吉田清治、音楽 中山武惹・村松茂宏、美術 吉田清治、照明 松沢喬士、衣装 豊崎利子
「ぶくすけ熊ところすけ熊」作・演出 華房良輔、美術 吉田清治、音楽 華房良輔
「三匹の子豚」作 山添哲、演出 濃原勇、美術 吉田清治、音楽 濃原勇
「孫悟空」脚色 吉田喜久雄、演出 華房良輔、美術 吉田清治、音楽 中山武志・華房良鯖、照明 松沢喬士
次の上演レパートリーとして、「ぶどう狸」(幼年向き)「裏町猫にゃん子」(シートン動物記より)三幕七場(一般向け)と書かれているが、どちらも日の目を見ることはなく終わった。
五頁からは、クラルテに寄せられた言葉が載せられている。初めは、小野十三郎さんが「集団の中での仕事」と題して書いてくれている。
「私は、人が多勢集まっている場所が好きである。酒場でも、植え込みのある庭に客が一ぱいつまっている広いビヤホールが好きだ。酒はワッと多勢で飲んでいなければうまくない。仕事をする場所も、あまり周囲がしんとしていると却って落ち着かず、想がまとまらない。去年の夏、一柵の本を書きあげるために山陰の温泉にいったが、夏場で他に滞在客もいないがらんとした宿屋の二階に一人放っておかれると眠くなるぱかりで、てんで仕事にならず、三日目にほうほうの態でひきあげた。やはり表で近所の腕白小僧どもがさわいでいたり、自動車の警笛の音などがしょっちゅうしているわが家の二階の方がいい。周囲がある程度騒然としている方が、頭の芯がひやっこく静かになり集中力が生まれるのである。これと別のことがらかもしれないけれども、集団で仕事をする人も、いささか私と相似た神経を持っている人間じゃないかと思う。つまり集団の中に身を置いてこそ得られる静かな充実した時間というものがあるのだ。単なる心境的な孤独さとはちがう、このような時間から生み出される仕事に、私たちの未来がかかっていると言ってよいだろう。詩でも、劇でも。」
小野さんはこの頃は大阪文学学校が文化運動の中で大きく期待され、その校長として忙しかった中で原稿を寄せていただいた。
続いて、岩田直二さんが寄せてくれている。
「人形劇の面白さ、人形が人間みたいに動く。それだけで面白いのである。夜店なんかで簡単な指人形を売っている。指にはめて頭を動かし手を動かす、それだけで楽しくなる、人形劇の面白さはまずその点にある。だが油断をしていると人形劇の安易さも、そこから又生まれてくるのである。プークの人形は次第に精巧になって、生きている人間に近づいてきた。文楽の人形も時々生きているように動く、人々は喝采する。しかし人形劇の面白さは、人形が生きている人間に近づくことによって増すものとは違うようである。うまく動くなあ、という感嘆は人形劇の面白さにけっして通じないのである。人間みたいに動くということだけによっている安易さも、人形の精巧さだけに人形劇の発展を考えるのも、どちらも人形劇の正しい発展を阻んでいる要素ではあるまいか。しかし最近まで私たちのやっていたものには、どうもまだそんな考え方が根強かったようである。最近クラルテはソヴエトの人形劇に学んで色々の試みをやっているようだ。残念ながら見ていないのでどんなものか判らないが、どうか、以上の欠陥を克服したところから始めてほしいと切に思う。というのも、書物で紹介されたのをみると、ソヴエトの一人づかいの人形も、人形劇の本質を探究するなかから生まれてきたことがわかる。でき上がった形式だけを真似るのでは、せっかくの努力も実を結ばないだろうと思うからである。クラルテは人形を愛し人形を創る人たちが集まっている。人形をつくる人がいるということは、人形劇団の必須の条件である。いろいるな困難さの中で途絶えながらもクラルテがここまで続いてきたのはその強みを持っているからである。その強みは、私があげたような今までの弱さをきっと克服していってくれるだろうことが期待できる。再建クラルテの発展を祈る。」
岩田さんは、京都芸術劇場の時に、「グスコーブドリの伝記」を人形劇として、自分で脚色・演出をしている。その時、京芸で美術を担当していた谷さんが、私に人形を依頼してきたことがあった。まだかみねんどで、人形を作っていた頃のことである。その他には、大阪府教育研究所の鈴木康一、有島洋介、先に書いた、沢野井信夫、児童文学者の小川隆太郎、五条小学校の校長になって長くおせわになった、本田義一、の方々の原稿をいただいている。
このパンフレットに書かれてある、再建の歩み」から書き抜いておこう。
「・・・1、2月は再建直後の慌ただしさの中で、公演日数3日、公演回数4回という結果に終わり、劇団自身の力を蓄える好機であると共に、経済的には収入が無く、合宿所による共同生活がようやく劇団員の肉体と精神の健康を保持してくれたのでした。
1、2月の地道なトレーニングによって3月の公演成績は13回と上昇し、しかも再建第一回公演を三越劇場で自主公演として持つことができました。大阪で育とうとするクラルテを支持してくださる方々のお力によって、1.300名の観客動員ができ、無事に初めての劇場公演を成功りに終えることができました。三越劇場で発表しました「孫悟空」「三匹の子豚」をもって7月まで、大阪市内を中心に、豊中、池田、堺、岸和田の各衛星都市を巡演し、この間、4月 13回、5月 15回、6月 22回、7月 17回と1月以来公演回数は86を数え、上半期の劇団活動は予期以上に活発に進めることができました。時期を同じくして大阪の人形劇団も、以前にもまして積極的に活動を始め、沈滞気味だった関西の人形劇の活動が再び新しい芽生えを持って燃え上がってまいりました。・・・」
(画像/「三匹の子豚」)
そして「クラルテせいかつ」の中に、宮坂の手紙「便り落手!」がのせられている。
「全く暑い。突然の原稿とは体力的に無理です。ですから下手くその詩と短歌を同封致します。私、至極好調です。体重61kg、結核菌も培養マイナス、血沈一時間2、肺活量2.500、そろそろ手術をと思って居ります。後、三年か四年もすれば、そちらに行けるでしょう。この際です。充分に治して出掛けますから−。兎に角、体には充分気を付けて下さい!人形劇への情熱はますます燃えて居ります。そちらに行く時はどっさりと夢を持って行きますから期待して下さい。病窓を飛ぶ蝶、歩く人、遠くの山森、全て舞台の様です。
凩
北から 南に一筋 光った梢の先で
厚い雪雲を切り裂き 甘い太陽を 吾が物にしようと
冬枯れの並木に 鞭音立てて
押し寄ぜる凩 凩
生き度しと 切なる想に喀き続く
己が血泡を 見つつ又喀く
看護婦に しばしもたれて山の端に
沈みゆく陽の 紅きを眺む
金なきを知りつつ あれ欲しき品
書き並べけり 病良き日は
−注−宮坂暉男君は、演技部劇団員として、1949年にクラルテに参加しました。1952年、福井県移動公演中に急性結核で倒れ、その後直ちに郷里の国立松江病院に入院、現在も療養中です。」
そして、最後に下半期の活動予定が書かれている。
「9月第二期研究所開所、9月下旬、エストラーダ試演会、10月京都、阪神地方公演
11月「裏町猫にゃん子」製作、11月下旬 特集パンフNo.5発行、劇場公演「裏町猫にゃん子」他、12月上旬人形劇脚本集No.1発行、12月大阪、和歌山公演
となっているが、ここでもまだ、予定であって、決定でないスケジュールを勿体ぶって書く癖は直っていないようだ。
東西合同人形劇
朝鮮戦争も終結して3年が過ぎ、ようやく、戦後の復興も軌道にのりかけてきていた。大阪の小学校も、焼け跡にできたバラックの校舎から、講堂のある校舎が建つようになって、大阪市内の小学校でも、人形劇をやってもらえる所が少しずつできていた。おまけにテレビジョンの放送が始まり、1956年4月からNHKで「チロリン村とくるみの木」の放送が始まったりして、人形劇に対する人々の受け止め方が、少しづつ変わってきていた。
そんな中で再建するというのは、幸いにも時期を得ていたと結果的には判断される。しかし、けっして仕事は楽に運んだわけではなかった。特に創造的な力量をつけようと躍起になったが、躍起になってもどうなるものでもなかった。ところが大阪でも民間のテレビ放送局ができることになり、その開局記念に東西合同の人形劇をやってはと大阪テレビ放送から話があった。東はプーク、西はクラルテという二劇団での上演の企画であった。
東京からは、川尻さんが乗り込んできて、テレピ局と三者で話し合いを持った。クラルテはなんとか新作でということになり、さてどうしたものかと逡巡したものの、せっかくの話にそれはできないとは言えず、何とか受けて立とうということになった。
先に予定として上がっていた「裏町猫にゃん子」は華房が出した企画であったがその後は音沙汰無く、何とか新作を書かなくてはならない羽目になってしまった。そこで、それまでなんとなく考えるでもなかった狐と殿様を主題にした、つまり彦一とんち話のようなのを書けないかと言っていたので、それをやろうということになった。
10月の14日にそごう劇場で二回目の上演をやったことは前に書いたが、その頃、劇団員の募集をしていて、ちょうどこの公演を見にこさせた。その中から、中納米子と美和田愛子の二名が参加してきていた。この2人も、合宿所に入りたいということで、雨漏りのしていた2階の東側半分を改造して、何とか人が住めるようにした。
12月8日(土)大手前会館で、2時と6時の二回公演をやった。
プークは「魔法使いの弟子」と「小さなお城」を持ってきた。クラルテは「きつね殿様」を新作上演した。
作、演出、美術 吉田清治、音楽 華房良輔、照明 松沢喬士、装置 芳養武夫、衣装 繁村孝子、舞台監督 山根宏章、アコーデオン 華房良輪、
キャスト、ごん作 松沢喬士、やすけ 芳川雅舅、おまつ 河北斐佐子、殿様 美和田愛子、狐 中納米子、狐の化けた殿様操作 豊崎利子、台詞 中納米子であった。
一方プークのメンバーは、
舞台監督に、宗方真人、役者は、古賀榔一、前野博、野田牧史、池内芳子、久保田恵美子、吉村福子
といったそうそうたる人たちであった。
この上演の時のパンフレットに、「昔話を取り上げて」という一文の中で、当時の状態を書いている。
「・・・クラルテは再建以来今日まで約一年、その間3月に第一回の発表会をもって、専門劇団として公演活動をつづけ、積極的に劇場公演、学校移動公演をもち、公演を通して、関西の人形劇においても一日も早く現代演劇の一つのジャンルとして仲間入りをさせてもらおうと努力してきた。近年民話に主題したのが色々な場所で発表され、色々な形で問題になっているが、私たちがその約一年の間に積み上げてきた成果があらためて民話を人形劇の舞台に持ち込み、発展さそうとすることについては、まだ充分な力は持っていない。しかし人形劇がおとなも子どもも充分楽しめるという本来から持っているものへ一歩でもちかづこうとするこころみである。
『関西における人形劇は実験の域をまだ出ていない』といわれている。たしかに現在の演劇芸術の水準がらすればまだまだ低い段階でしかない。しかし色々な実験をくりかえすことによって、人形劇が演劇にまで高まろうとする努力を実らせることができるだろう。人形劇が演劇の一ジャンルとして大体の評価基準ができた現在、私たちも人形劇のあらゆる技術を向上させると共に、人形劇の創作方法を整理し確立するために、この民話劇を通じてもおし進めて行きたい思う。」
まさに、よちよち歩きの子どもが頭の中をこんがらせて、それでも何か自分たちの懸命な思いを書かなければならないと言ったことだけが、抽象的に並べられている。
このパンフレットの最後に港野喜代子さんが一文を寄せている。港野さんは、その後も私たちを励まし応援していただいた、忘れることのできない人である。
「ぴっころ がっころに 期待を
指先は どんなに何気なく スイッチに触れても
光はいつも 生まれたてのにおいがする
小さい灯に 指をかざして 今夜も たくさんたくさんの人を思う
わたしのこの十本の指が、素手のままでさえ、たえ間なく躍動して何かを言おうとするのは、啄木がうたったような我が生活、我が指ではなくて、たくさんたくさんの私たちの仕事としての人間のつながりや、人間が人間を創造して来た舞台としての人間の現実なのだ。人形使いだけの人形劇ではなくて、私たち身辺の至るところにあのぬけぬけした顔で、自由闊達にはなしかけてくる人形たち。
どんなにきしんだ生活のなかからでも、古びた家、粗雑な世帯場からも、廃虚の砕げた石からも、樹木の中から、海底からも、土の中からも、霧や風の中からも、たしかな生活活動を開始する人形共、その呼吸がピタリッと来るのが民話劇でもある。
民話が単なる民族哀話や枯淡な語り草ではなく、庶民の知恵の根強さとして現代に生彩を放つ上にも人形劇の役割は今後重い。それは詩や童話に浸されるというような観点とは別に、人間の棲家の在り方からはじまって、典型的なお爺さんお婆さん、とぼけた若者や、かなしみに磨かれた人間の顔とそぼくな言動を子どもの世界どころか、古さや新しきなど問題にならない程、何千年、何百年とつづく人間の、この雑多の渦に耐える力を示してくれる面白さ、たとえ人間の列からポツンとつき放された場合にも、救いがたい俗念に対してねばり強く立ち向かう力を湧きたたせるのが人形劇の神髄である。
人形劇の舞台は見慣れた物やなじんだものだけが魅せられる時代ではない。どんな通りすがりにも、どんな不意の場所でも、原子時代、不安な過去と、不安な未来、不安な現在を人形の首一つねじ向けただけで結びあわせたり、遠い時代の滲みを他愛ない動作で思いきり鮮明に蘇らせたり動物の世界、物質の世界を自然なゆとりで溶けあわすことの夢と現実を、現実の場で実現する。それ等は人形が生きている空間をとおして、人形が人間に向かって「人間共よ落ち着けよ、落ち着けよ」と全身でサインしている美しき。
ぴつころ がつころ 働きぬく人形の頬つぺよ
母たちの夢がもしかして
お前たちに似すぎているとしても
かんしやく立てるなよ
ギニヨールよ
酷使されても汚されても
いつも生まれたての香りのする
その顔たちよ! 」
詩人であった港野さんが初めて私たちのために贈っていただいた原稿であった。
でこぼこ道は続く
9月に入って再建後走り続けてきて、ほっとしてみるといろいろなところに問題を残していた。9月11日の劇団委員会の記録を見ると、
最近の創造面での意欲の低下した状態、仕事の煩雑さでの混乱、劇団委員会の性格の再検討が問題とされた。そして12日に委員会は継続して開かれ、北浜が合宿を出て、吹田へ帰りたいとの希望が出された。理由は脚本を書くのに、合宿では個人の仕事の時間が上手く取れないため、個人の時間を持ちたい、ということであった。
北浜が合宿を出るということで、改めて、合宿所の改造をすることで、少しでも個人の生活を保証しようとした。
10月26日の劇団委員会の記録では、再建間なしから劇団活動に精力的に参加してきて、劇団委員にもなっていた松沢がこの委員会に退団届けを出した。その理由としては、
「自分自身今まで何をしてきて、どのように高まったかということが掴めず、それに加えて劇団委員という仕事まで負わされて、自分の考えが、穴の中に落ちてしまう。そのため、退団という形になってしか、解決のつけようがなくなった。」
討議の結果は、劇団委員を辞任し、演技部の一人として残る。
12月に入って、合宿を出た北浜は、やはりどうにも劇団の委員として活動に参加しているのは納得がいかず、準劇団員として仕事(制作)だけすることで参加していたいということになった。
このように劇団委員会から、二人が結果的に抜けていくということは、劇団全体に与えた影響は大きく劇団委員会に対する不満にまでつながった。
このアンサンプルの混乱を救ってくれたのは、その時期劇団には、準劇団員であったが野原、華房が参加してくれていたことが力になった。
でも困難な中にも、私たちの活動を支援してくれる人との出合いもあった。それは12月に八尾小学校で上演をして、舞台をかたづけていたときであった。背の高い先生が、一冊の本をかかえて寄ってきて、
「僕、ロシヤ語を勉強しているんです。この本は、子供のための人形劇の脚本集です。希望があれば、翻訳してもいいと、思っているのですが」
といった。
渡りに船、地獄に仏、「ぜひお願いします」と。その先生が、渡辺元先生だったのである。
1956年7月からの下半期の上演記録を書いておこう。
7月、5日 豊中克明小、6日 九条北小、7日 井本鈴子バレー団、九日 玉造小、10日 淀川、16日 集英小、19日 十三中学校 公演日数7日、上演回数12回
8月、6日 学校劇全国大会、18日 守口三郷小、26日 そごう劇場公演日数2日、上演回数4回
9月、4、5、6日 守口全市小学校、守口、土居、滝井、寺方、三郷、橋波、19日 日東 東小路小、29日 追手門中学校、30日 ひぱり丘学園 公演日数11日、上演回数20回
10月、11日 中浜小、14日 そごう劇場、18日 城北小、22日 姫島、23日 姫里小、公演日数6日、上演回数12回
11月、9日 御幸森小、10日 上新庄、14日 箕面北、萱野小、15日 箕面小、16日 元町小、17日 港小、19日 八幡屋小、20日 西九条、21日 内代小、22日 堀江小、24日 太子橋小、26日 三宝小、29日 真田山小 公演日数13日、上演回数22回
12月、6日 八尾小、8日 大手前会館(東西合同人形劇)10日 東中川小、13日 東桃谷小、15日 協和小、17日 北巽小、20日 立葉小、22日 高石小、22日 大阪テレビ放送(スタジオでのテスト放送)23日 今橋クラブ、25日 新大阪ホテル、28日 大阪テレビ 公演回数12日、上演回数23回