劇団創立15周年


第8回公演「鳥の乳」の再演

 「創立15周年を迎えて私たちクラルテは、人形劇芸術の地歩を固め、いっそう深化させ、普及するために、多くの課題をこの時に持っています、芸術が豊に伸び発展することを妨げる、政治的、経済的諸条件は、これからも前途に多く横たわっています。しかし、状況が困難であればあるほど、私たちは、人形劇創造へのエネルギーをたくわえ、集中させて行くことが必要になっています。人形劇の魅力をあらゆる階層の観客に向かって、爆発させていくことを考えたいのです。人形劇が、観客の胸に消えることのない舞台芸術として射込まれなければなりません。

 人形でなくては表現できないものを、ズバリと劇にすること、それは人形劇の独自性として、一昨年からの課題でありました。昨年の二回にわたる公演でも、追求をこころみた課題であり、なおそれは、未登頂の高い山として、はるかにそびえているのです。山だと思えば、それは雲であった、そんな徒労は、果てしなくつづくことでしょう。これまでの経験を生かしながら、より自由に、演出も演技も美術も、それぞれ共通の課題を明らかにしながらアプローチしなくてはなりません。人形劇を大衆の中へ。大衆化という大きな課題も含めつつ、私たちは、今六年前に上演した「鳥の乳」の再演にとりかかっています。
 つねに平和をねがい、光をかかげて、歩んできました一五年、民衆の智恵と力をうたった「鳥の乳」を再演いたしますことは、創立記念公演として意義あることと信じます。
 人形劇の限りない発展と、明るい未来のために今後ともご支援下きることをおねがいいたします。
芳川雅勇」

 の挨拶文が創立15周年のパンフレットの巻頭を飾っている。
 
 この「烏の乳」の再演は、記念公演を年3回やることを決めていたことから、なんとしても夏までに劇場での上演をやらなければならなかった。新しい翻訳物を渡辺先生に頼んだのであったが、適当なもの成なく、この再演をやることになった。初演は中江隆介さんに演出を頼んだので、今回はまったく新しい視線からの舞台造りをするために、若い演出家を探した。その結果、関芸の一杉忠さんに白羽の矢がたった。新劇の演出を指向されていて、人形劇に興味を持っているということでお願いした。
 スタッフもなるべく若いフレッシュな人をと考え、美術は輪田星輝が担当した。照明はこの舞台で初めて、上畑裕俊と出会った。また万玉秀樹が美術製作に名を違ねている。正式に入団したのではなく、大学の予備校へ行っていたところ、手伝いに来るようになっていた。もう一つ記録しなければならないことは、日隈礼子が同じく美術製作に名前がのっていることと、「村人」で人形も遣っている。
 再演では、初演の時分に中江さんがテキストレジした、森の中の女王エレーナ・プレムドラヤの場面を原作どおりに上演した。このパンフレットに「クラルテの十五年をふりかえって人形劇のこれからのあゆみ」と題して川尻泰司、渡辺元、一杉忠、芳川雅勇、司会、吉田清治での座談会がのせられている。

  「第二回関西人形劇フエステイバルが去る五月十一・十二の両日、大阪府下枚方市に於いてもたれ、それに出席のため来阪された川尻氏を劇団に招き、「鳥の乳」の翻訳者渡辺元氏、演出一杉忠氏をまじえて開かれました、異常の長雨に劇団の屋根の雨もりを気にしながら夜ふけまで話し合われました。」

   劇団の建物は、雨が続くと郭屋の中に茸が生えてくるといった案配であった。合宿所にするために、いささか雨もりはなおしたとはいえ、「築、一〇〇年、木造、一戸建て」建物自体が歪んで、屋根は真ん中で大きく下がってしまっているといった案配では、雨もりはいたし方なかった。

司会(吉田清治)  クラルテも創立以来紆余曲折はありましたが、いつのまにか十五年たちました。今日はその歩みと、これからの十五年、人形劇の未来像について話しあっていただきたいと思います。

川尻   私が初めて会った頃のクラルテはセイちゃん(吉田)の兄さんや、山添君{現映画監督)らが中心になって、学生服を着た可愛らしい人たちがまわりにいたんですが、そういうイメージが強くて、いまクラルテにいる人たちもいない人たちもクラルテと結びついて、私は大阪に友人が大勢いることをかんじます。クラルテは戦後、サークルから専門劇団に成長した典型じゃないでしょうか。他にもそういう劇団がないわけではないが、一度つぶれて再建したということでも重要な意味を持っていると思います、・・・解散以前のクラルテを外から見ていてまず、専門劇団に必要な演技者の核がなかった。若いエネルギーはあったが、単なるチームワークではだめで、劇団としてのアンサンブルができなければ芝居ができないということを当時言ったのですが、残念ながら理解されなかった。それが解散という時期にセイちゃんは商業美術で働いて美術家としてある成長をし、センちゃん(芳川)は演技者として育っていった。そういう要素が技術集団としての主体的条件になって再建は質的発展を持ったと言えるでしよう。
司会    再建後の活動にふれていただきたいのですが、一杉さんはいつごろからクラルテとつきあうようになったのですか。
一杉    人形劇はもともと好きだったのですが、「黄色いこうの鳥」のころから意識するようになったと思います。人形劇には、演劇をやっている者の引きつけられかたじゃなくて、子どもがおもしろいなあと言うのとおなじような、そのうちに人形劇には人間の芝居ではやれないことができる、・・・『眠りの森の盗賊』の舞台監督をやってすごくしんどかった。けれど最初に感じていた面白さより、ただ人形にひきつけられ、ごまかされているような感じがした。
川尻    人形にごまかされていると感じられた話が出たが、ほんとうに人形にごまかされるということがあるのですが、これは意識的に正当に討識されていいと思うのです。クラルテの演技者も山根君や豊崎さんが八年、中堅として核ができてきたのですが、その中でさらに独自性を持ったものが結晶させるためにも、創造団体としてもどかしいと感じるものを演出の一杉さんと一緒にさぐりあてていくことが大切だと思います。
一杉    演劇をやるものも同じことが言えるのだが、七〜八年やっていても若い。その若さがそのまままとまってそのなかに安住していくんじゃないかと思う。それが逆の意味でコンプレックスにつながっているような。
川尻    その問題は、演劇をやっていられる方にも考えて頂きたいのですが、社会的にも人形劇は、芝居と比べて不公平に扱われ人形劇コンプレックスを持つようになる。人形を使う人が、人形使いとしただけでなく、俳優であるという気構えを持つことが大切だと思う。このことは人形劇が比較的認められている東欧の人形劇人もやはりあるらしく、人間の演劇と同等であると主張しているのです。
一杉    人形劇人がコンプレックスを持っているというのが良く分からないのですが、演劇の一ジャンルとして人形劇がある以上、特別にコンプレックスを持つというのが理解できないのですが。

川尻    人形劇の演劇に於ける位置づげを理諭的にも明らかにしていきたいと思っているのですが、人形劇は演劇の一ジャンルじやなくて、演劇の基本的範鴫に入るわけで、実人間劇、人間でやるあらゆるジャンルの演劇とそれになぶものとしての人形劇、その中間に仮面劇があるというわけで、人形によるバレー、パントマイム、オペラ等々、人形でやられて不思議ではない。それが日本では、固定化されたリアリズム、ナチュラリズムが主流となっていたということもあると思うんだが、もっと人形劇が実人間劇に大きな影響を与えるようになっていいんじゃないかとおもっているのです。
渡辺    一杉さんとクラルテの結びつきに安保闘争を共闘したという連帯感が大きな結びつきになっているようにかんじるのですが。・・・この辺でクラルテもソビエトの作品にいつまでもオンブされていないで、日本のことを書く人ができてこなくてはいけないんじやないかな。
川尻    戯曲が大切な問題なのですが、基本的には人形劇人が現実を正面から厳しく取りくまなければならないことだと思うのです。これはクラルテだけの問題ではなく、プークにとってもおなじように大きな問題です。・・・人間の劇の場合は、文学的な基礎が大きな比重をしめているが、人形劇の場合は、それと並列的に重なりあって、造形的な基が必要になってくる点が、大きな特徴といえるでしょう。
一杉    人形にはもっと表現の可能性があると思うのです。人形によるリアリティをもっと追求してほしい。うその芝居を役者はしないでもらいたい。でないと結局人形に引きずられてしまう。
川尻    人形劇のリアリテイはむずかしい問題です。虫けらから人工衛星まで高い次元で表現しなければならないんです。演出家のいっておられるリアリテイをこんどの芝居でどう表現されるか楽しみです。
司会    ではこの辺で、ありがとうございました。

 この座談会には、その時代の思いや考え方とが図らずも記録されている。そのひとつは人形劇人のコンプレックスについてである。これは、人形劇の社会的評価がまだまだ低いと考えることと一緒になっていて、自分たちの仕事にたいするプライドが充分に持てるといった状態ではなかった。
もう一つは、クラルテに於いてもっとも深刻であった脚本生産の問題である。渡辺先生という、ロシヤ語の翻駅をそれこそボランティアでやっていただいた人がおられたので、再建後のすべての活動が、翻訳物の脚本で成り立っていった。その中で、なんとか自分たちの力で脚本を生み出そうとする努力はなされたが、なかなか翻駅物の戯曲に対応できるだけの作品は生み出しえなかった。このことは一九六三年の上半期の活動報告に書かれている。

(創造活動の報告の後半に〕
 「・・・人形劇における創造的な可能性は無限にあるといいながら、その可能性の一端すら自分たちのものとして発展させられていないと言えば極端にすぎるかもしれないが、脚本が翻訳物に依存することで活路を見出してきたことが、自分たちでは脚本は生み出さなくてもよい、と言った気持ちを生み出していた。可能性はわれわれ自身の創造のなかにあり、すべてのしごとのなかにあるということを忘れてはならない。
 今年じぶんたちの作品を生み出しえなかったことは、創造集団として命とりになる危険性を持っている。今日自分たちの作品を生み出しえない集団は明らかに停滞と混乱をひきおこしている。人形座(一九五三年創立当時プークにいた、かってクラルテに籍を置いたことのある田畑精一らプークの劇団員も数人参加する。一二年間の活動を続けたが六八年に解散)にしてもその創造的に自分たちの作品を生み出しえなくなったこととか関係してのことである。いかなる形においても、自分たちの作品にたいする創造の共通した目標を明確にしていくことがアンサンブルを生み出していく基礎となる。」

 と書き、自分たちの手で何としても、脚本を生み出すことの必要性を問題にした。

15周年記念公演「セロ弾きのゴーシュ」

 1963年1月、関西TVから無週月曜日、連続人形劇「ドレミファ少年の冒険」を、NHK教育で「はたらくおじさん」にたんちゃん、ぺろくんの人形が出演、とTVの仕事もすこしづつ増えてきていた。
劇団員として宮田富士雄が参加し、行俊敏子が美術製作に嘱託として参加している。
 創立15周年の記念公演の最後は「セロ弾きのゴーシュ」の上演であった。先にも書いたように、劇団で脚本を生み出すことの困難さから、記念公演の最後を飾る作品をどうするかということで、外部の作家に委嘱することも試みられようとしていた。しかし、なかなか委嘱作品が思いどおりのもの、つまり人形劇としての作品は、その劇団の創造的アンサンプルと不可分にあるもので、これはという作品には長い付き合いの中でしか納得のいく作品には仕上がらなかった。そこで、第一次のクラルテのときに、アコーデオンでしか上演することができなかった「セロ弾きのゴーシュ」の原作を思い切ってやってみようと思い立った。

(画像/「セロ弾きのゴーシュ」舞台)(画像/「セロ弾きのゴーシュ」のゴーシュ
 初めて劇場公演の脚本を書くということで、大人の鑑賞に耐えるということがなんであるのかが明確ではなく、ただ社会的状況の現実を無理に持ち込むことで、劇場公演としての脚本になりうるといった、浅い思いでしかなかった。つまり、賢治のもつファンタジーよりも、浅はかな社会性の方にテーマをこじつけた作品になってしまった。この上演には、記念公演ということでもあり、プークから宗方真人(手島源昭)に舞台監督として、特別参加をしてもらった。かれは、プークでの仕事の中心は、そのころ舞台監督であっただけに、人形劇の舞台監督としてのやり方を完成させていた。そのおかげで大いに演出の仕事は助けられた。
 松本喜久子、日和佐好美、が新しく参加、門田修平(KAC)に出演してもらった。翌年64年2月に再演をした。その時の新聞評の一部を書いておこう。

 「・・・昨年12月の公演に比較して、会場雰囲気とは別に、今回は低調である。前回では演劇として、セリフのアンバランス、その他数多くの欠点が非常に目立ったが、出演者の成功しなくてはならないという熱っぽい息吹が感じられ好感が持てた。しかし今回は、前回の欠点がかなり修正されているにもかかわらず、なぜか空転しているもの、すなわち、なれからくる惰性があった。商業演劇はさておき、全体的に、それが感じられたのはクラルテのありかたとして絶対にゆるされない。従ってそのほかの欠点、長所はあえて指摘せず、強い反省をもとめる。一日の一部所見(考学〕」

 また毎日新聞の阿部好一さんの批評は
 
 「・・・次にみたのは『セロ弾きのゴーシュ』だった。ここでは私は逆にクラルテヘの不満を感じた。手短かにいえば、第一場の、商業主義のためにゴーシュたちのオーケストラが解散させられるというエピソードの扱いについてである。世俗というものへの単純素朴な批判、いや批判というよりもそれは文学青年的な未熟な感傷でしかない。
 劇団のひとは『大人も子どもも楽しめる舞台にしたかったので・・・』といっていた、だが私は反対である。大人なんかどうでもいい。子どものことだけ考えたらいい。子どもに見せることに徹底すれば、そこに自然に大人の鑑賞にも耐える舞台が生まれてくるだろう。性急に単純に?大人のため?を考えることは、かえって舞台に青臭さとひ弱さを持ち込むことになるのではないか。社会批判や文学性を無理にこしらえあげると、浅薄で混濁した舞台を生むだけである。
 『セロ弾きのゴーシュ』そのものは初演後改良されて面目を一新したようだが、少なくとも劇団としてはさらに、?子どものため?の芝居に心底からほれこみ、それに徹底してほしいと思うのである。」

 二つのこの舞台に関する批評は全くその通りというしかなく、俗っぽい社会批判を持ち込むことで今日の芝居として成り立つと浅はかに考えていた。この時の舞台から多くのことを学ぶことができたし、もう一度この原作に挑戦する機会に恵まれたとき、おおきな力になった。

クラルテ友の会発足

 1963年11月20日付けで月刊クラルテニュースNo.1が出ている。
「子どもたちのためにクラルテを応援しよう」という見出しに始まる謄写版刷の新聞である。

 「早いもので、昨年10月、朝日生命ホールの秋の公演大和川幼権園の園児二百名余りと、お母さん方で『真冬に春がきた』を観劇に行ってからちょうど丸一年になりました。最初子どもに引かされたのと物珍しさの半々で行きましたが、舞台の美しさ、人形を使っているクラルテの若い人々の熱意、真面目な態度にまずうたれました。そして、こんな立派な劇団が私たちの住む住吉の一隅で貧しさに負けないで頑張っていらっしゃることに大きな喜びを感じました。それはきっと子供たちに大きな夢と希望を与えてくれるに違いないと思ったし、またお母さん方にとっても情操教育の一助にするべきだと考えたからです。現在子供たちは確かに物質的に恵まれていますし、身体も大きく頭脳も進んでいます。しかし、又反面俗悪な娯楽が氾濫し、その中でアップアップしている子供も多く居ることも事実です。この様な大事な時に子供たちに良い人形劇をと、一生懸命にやっていらっしゃるクラルテの活動は大きな意義があると思います。だから地元のお母さん方も、小さい力を集めてクラルテさん、がんばってくださいと、友の会に入って応援してあげようということになったのだと思います。
 私は願います。一日も早く、クラルテさん何でも友の会にまかせなさい、と胸をドンとたたける程にクラルテ友の会を大きく発展することを」

 「地元の声授は大きな支え___劇団から」という見出しで書かれている。
 
「クラルテが住吉区南加賀屋町に再建の旗挙げをしてから、満八年を迎えます。まだ畑がひろぴろと国道までの道の両側に広がり、大阪の涯という感じのする頃でした。静かな家並の真ん中で、突然、動物園の様な騒ぎが始まったのですから、地元の皆さんはさぞかし、驚かれたことでしょう。人形劇といえば、紙芝居の姉さんみたいなものと思われていただけに、若い男女が人形をもって、奇声をはっして跳ね回っている様子は、異様に見えたことでしよう。
 よちよち歩きから仕事を始めたクラルテが、八回にわたる定期公演を持ち、TV、学校上演と、多彩な仕事を続けられるようになったのも、地元の皆さんの、八年間の変わらぬ激励と御声援の賜物と思います。
 昨秋の『莫冬に春がやって来た』上演を契機に、友の会が地元の皆さんを中心に盛り上げられ、劇団の大きな支えになってきました。今後、人形劇をより一層理解していただくために、友の会の皆さんと共に、人形劇映画の鑑賞、人形劇の講習会など、多彩な計画を実現していきたいと思います。これからも一層、御声援いただきたくお願いいたします。
       クラルテ(芳川)」
      
「友の会世話人___住吉区 名城園長先生(大和川幼稚園)、進行係 辻川さん、山田さん、中川さん、会計 牧さん、友の会ニュース 白根さん、友の会連絡所 小枝さん、沢田パン屋さん」

 友の会ニユースの裏面には、「私のひとこと」として辻川きみ子、中川幸子、北条たまき、坪井幸子、塩入美佐子、牧富美子、小島文子、の方々のメッセージを頂いている。

門脇君雄の死

 1961年11月より、制作部員として劇団活動に参加していた門腕君雄が、1963年11月9日急性心不全のために38才の生涯を閉じた。クラルテにとっては二人目の死亡であった。友の会ニュース第二号が翌月の12月に出ている。結婚して間なしであった、美津子さんの文章を書いておこう。

 「あっという間のできごとのように、先月(11月〕9日、主人がこの世を去って、早一ケ月がたちます。この間クラルテの皆さんや周囲の方々の暖かい御厚情に見守られながら、私の人生も日々歩んでおります。演劇は素人でありました主人も、入団後2年を経て、知識の貯金も大分でき、昨今やっと単独にて制作の仕事もできるようになり演劇活動の面白さが自分のものとなってきたと喜んでいた矢先、この発展途上で、この世を去らねばならなかったことは何としても口借しく、心残りであったことと思います。
 病床にあってなおも仕事にたいする情熱を失わず、動かぬ身のもどかしきに、心を痛めていた主人の最後を思うとき、私はクラルテの発展のみが主人の霊をなぐさめる得る唯一のものと確信いたします。幼き者たちの感情が素直に感取できるうれしさにクラルテの仕事に誇りを持って向かい、常により素晴らしい芝居をと創造の喜びを語るとき、主人の目は明るく、いつも大変楽しそうでした。労多くして、楽少なき人形劇活動を今後も友の会の皆様の御声援を得てより大きく発展きれますよう、心よりお祈り申し上げます。又友の会の皆様には、主人の葬儀にあたり、種々御心尽くし頂きましたことをあらためて、厚く御礼申し上げます。門脇美津子」

 また門脇君雄をクラルテに引っ張ってきた宮坂が、15周年記念公演の「セロ弾きのゴーシュ」のパンフレットの中で、追悼文を書いている。
  
  「門脇君雄君を悼む
            富坂障男
 門脇君雄さん
 青空の少ない君の故里 大根島
 茶畑に白い花が咲き、初雪に輝く大山から冷たい風が吹きおろしている
 茶畑の花に囲まれて君はもう安らかに眠って仕舞った。
 君と初めて会ったのは戦後ソビエートから引き揚げ 村の民主化運動の先頭に立って
 斗っていた頃だ。
 今でもその姿が昨日の様なできごととして私の魂に刻まれている。
 数々の成果を収めながら病に倒れた君
 療養所でパッタリと合って私の手を握り
 「今度は病気と斗うのだ共に頑張ろう」と七年間
 療舎ではげましてくれた門脇さん
 相前後して退院すると今度は人形劇団クラルテで
 私たちは君を迎え再ぴ生活を共にすることができた
 あれからちょうど二年
 文化にめぐまれない地域の学校を先頭に立って歩いた君
 その足跡は私どもの道しるべとなり劇団発展を支えて行くことでしょう。
 他人の健康を人一倍注意した門脇さん
 私は何故君の体に気を付けなかったのか___
 療友として  同じ劇団員として深く詫びると共に 今後は他人の健康に充分注意し、
 全員欠けることなく君の故里大根島へ人形劇を持って君との再会を御約束いたします。
 門脇さんの大好きだった茶の花で詩を創りました下手な詩ですが君に捧げます。
 
 
    茶の花
    丸い丸い小さな花
    冬の陽に照らされ
    夜の様な色をした茶の木の葉陰に
    明るく咲いている白い花
    霜の降る寒さにも
    吹雪にも負げず精一杯に咲いた花
    春の訪れを前にして
    数少ないその中の一輸が
    力尽きて散り落ちた
    

 門脇君雄は先にも書いたように、出雲ズーズー弁とよばれる、典型的なひとであった。〃なまりは国の手形〃というものの、彼はその人そのものであった。少年のような、純粋さで、心だけはいつも情熱的であった。しかし、結核で肺の手術をしていたことから、肺活量は極端に少なく、風邪をこじらせて、入院してそのまま帰らぬ人となった。
 いつもコールテンの登山帽をかぶって、ひょうひょうと歩いていた。後に宮坂が書いている、大根島の上演は約束がはたされ、その時はまだ門脇の父母も健在であり喜ばれた。

アトリエ建設の年64年の幕が開く

 1964年1月に「セロ弾きのゴーシュ」の作曲をしてもらった、本田周二さんが勤めている学校、神戸六甲学園で上演、NHK.TVの『楽しい昼休み』に「セロ弾きのゴーシュ」を放送、2月に朝日生命ホールでアンコール上演、3月に静岡、三島市の楽寿園の劇場で「真冬に春がやってきた」を一ケ月間上演、この時、春の時期は雨で休演することがあり、その時間を、人形によるアニメーションの勉強をした。8ミリのカメラで、ただ人形を歩かせるといったことを繰り返した。この勉強の手ほどきにはプークの研究所で柴田光子と同期であった太田かおるさんが、アニメーターとして仕事をしていたので彼女をわずらわせた。
 NHK・TV『楽しい昼休み』で「あし助とみみ子」を放送。NHK.TVの教育放送の四月からの新番組『たのしいきょうしつ』に『ち-ちゃん、かっちゃん』が登場、『楽しい昼休み』で「きつね殿様」を放送、またアトラクションとして『サンケイ幼権園まつり」で中国地方巡演、とTV、アトラクションも少しづつ増えてきて、アトリエ建設に着手した。
 四月下旬より、100年近く経った古い木造の家をこわし、軽量鉄骨2階建て、延べ36坪の建物を建てることになった。古い建物の便所に使っていた土地が向かいの加賀谷家のものであったので、新しくアトリエを建てるにあたって、その土地三坪ばかり買い足した。
 建築業者はいろいろと当たったが、充分な資金量があるわけではなかったし、銀行もその当時は全く相手にはしてもらえなかったこともあり、あまり好い返事をもらえるところがなかった。そこへ近くの後援会の小枝さんの知り合いの大石工務店を紹介してもらい、そこに頼むことになった。
 事務所は向かいの、西角宅(この家は元は部落の風呂屋さんで、脱衣場と風呂場を仕切って、天井が高いので二階を作って部屋にしていたのを、劇団の者がいくつかの部屋を借りていた)の奥の部屋を借りて、なんとかやっていたが、狭い所でもあり、ごったかえした状態のなかで仕事をしていたので、謄写版の原紙を張りつけるのに、焼けすぎたコテで、蝋原紙を燃やして、もう少しでポヤを出すといったハプニングもあった。
 美術の作業は建築会社を紹介してくれた小枝さんの仕事場の横の空き地にトタン張りの建物を建てて、そこでTVの仕事や、その頃、ぼつぼつやりかけていた、TV.CMのための人形アニメーションの仕事もやっていた。その仮小屋にベンツがとまって、仕事が舞い込んだのは、阪急百貨店の夏のセールのための、人形アニメーションであった。
 新しいアトリエができた初めての仕事がこの仕事になった。アトリエの二階にプール、2寸角のたる木を組んで、その中に水色のビニールシートを入れ、水を張った。そして四人乗りのレガッタを浮かべ、水中からテグスで操作して、オールを漕ぐといったものであった。だからコマドリではなく、流して撮影しなければならず、オールを上手く漕ぐための仕掛けは、何度もやりかえた。
 この仕事のおかげで、アトリエの2階でそれから、何本かのアニメーションのコマーシャル・フイルムを撮った。しかし、軽量鉄骨で床が完全ではなかったので、こまを打っている間は、抜き足さし足でしか歩けなかった。アトリエの建設費はこのアニメーションの仕事で、支払うことができた。
アニメーションの多くは、戸田節三さんのプロダクション・サンユウの仕事であった。

「人形劇団クラルテ研究所落成式 ご案内
  緑濃く風爽やかな季節となりました。皆々様には、益々御健やかに御活躍のことと存じます。
  さて、クラルテでは創立以来の念願でありました研究所を皆様の御力添えを得て、四月下旬より旧アトリエ跡に於いて建設に着手いたしておりましたが、このたび落成の運びとなりました。2階建て140平方米のさきやかな研究所ではございますが、今後の人形劇の普及、発展に大きな役割を果たし得るものと確信いたしております。
 劇団創立十六年を迎えました年に、新しい創造の場を持ち得ましたことは、劇団員一同、喜びでありますと共に、益々、人形劇創造に不断の努力をつづけることを誓っております。万障御繰り合わせの上、御出席下さいますよう御案内申し上げます。
 1964年6月人形劇団クラルテ
   日時6月20日午後6時半より9時
   
★落成記念パーテー次第 挨拶、祝辞、懇談
★記念アトラクションポボードビル、人形映画、その他」

 以上が、アトリエ完成記念パーテー御招待状の全文である。

 建設経費は本体工事400万円、付帯設備費50万円であった。この建物は建築基準法にもとづかない建物であった、つまり、古い建物を改造するというたてまえであった。

(画像/スナップ1965年

劇団員20名を越える

 念願のアトリエが完成して劇団員は増加した。地方の熊本から星子裕幸、兵庫から司波瑞穂、が参加してきた、、大阪周辺からも入団してきた。中でも大阪市立工芸高校の卒業生、藤井政治、平岡正勝、と少し後に南条亮の三人と、中島弘美、福田紘子、清木則子(西本則子)と急増した。
 3月と10月には、楽寿園の仕事が走着して上演した、またNHKの教育番組で「楽しい昼休み」で『眠りの森の盗賊』を四回遵続で10月に放送し、11月には『カシの木と泉』を放送した。またお正月番組の「人形劇の時間」に『船乗りシンドバット』のフィルム取りをスタジオで、また劇団の裏の大和川に船を浮かべて撮影もした。アトリエの建設費の返済のために、おおいそがしで学校上演、TV、人形アニメによるコマーシャルフイルムの撮影と仕事を進める中で、「ジャングルジムは沈んだ」の仕込みに入った。前の年、創立15周年の記念公演に「セロ弾きのゴーシュ」を脚色、演出したことで、この年の劇場公演も何とか、自分たちの脚本で上演したいと思っていた。その大きな理由は1963年に10年間も活動を続ケていた、東京の『人形座』の解散にあった。それは座付き作家であった木村次郎さんが、劇団を去ったことに始まったと、私は思っている。現代人形劇は自らのアンサンブルのなかで、作品{戯曲)を生み出すこと無しには、劇団活動を続けることはできない、ということにあった。勿諭『人形座』には複雑な事情があったことと思うが、私が最も強く印象付けられたのは、そのことであった。そこで自らの手で脚本を生み出すことを、劇団の中に強くアッピールしたのであった。
 そのような事情から何としても、劇場公演用の脚本を書かなければと、思い続けていてだいぶ時間も迫ってきていたとき、本屋の棚にこの「ジャングルジムは沈んだ」の本と出会った。作は安藤美紀夫さんで、挿絵が、かって『プーク』で美術をしていた、山田三郎さんであった。なにか、因縁めいたものがあったのかも知れないが、この山田三郎さんの挿絵に引きつけられるものがあった。読んでみると、今までの日本の児童文学にあるどこかしめっぽいファンタジーと違って、フィクションの世界のなかに、ドラマチックなフアンタジーが展開されているのに、たちどころにこれを脚色しようと決めた。この舞台の評価は朝日新聞の清水三郎さんが、翌年に上演した「船乗りクプクプの冒険」のパンフレットに書いてもらった文章にすこし触れているので、また人形劇の創造にたいしての、清水さんの考えが書かれているので全文を書いておこう。

 「初めから、へそ曲がりな話になるが、この秋大阪で上演された俳優座の「ファウスト」を観ていて、殊に前半のタドタドしさに往生した。メフィストがファウストの書斎にあらわれるあたり、舞台一杯に白煙を張り、その中から忍者もどきメフィストが現れる。生身の悪魔が出るかぎり、あれで精一杯というところだろうが、人形劇でぱ、そんな持って回ったことはやらない。マグネシウムのフラッシュなんかパッと焚いて、ピカッと光ったかと思うと、メフィストが立っている。即興的で、無邪気で、手際よくって、演出としては、この方がずっと良いことは当然である。もともと「ファウスト」はゲーテが幼いころ見た「ドクター・ファウスト」の伝説をとりあつかった人形劇をもとに書き起こしたということだか、その主題はともかく、悪魔の出没などは、この大家にして人形劇的モチーフにかられていたとはおもえない___と、まあ「ファウスト」ばかり取りついたが、要は、人形劇の本領は写実追求や心理描写に浸り込むよりも、人形劇独自の個性を探り当てるべきだ、ということなのである。じゃ、人形の個性とはどういうもんだ、と開き直られそうだが、人間の感情なり思想なり、あるいは行動なりを人形に移す場合、そのままそっくりに移入するのではなく、感情の高低、行動の振幅を、その両極端でとらえて描写するところに独自のものがあるのではなかろうか。大変ややこしい言い方だが、もう一度言わせてもらえば、人間の動作や言葉を生じっかな写実で追いかけず、人形にふさわしいデフォルメが伴ってこそその舞台は生かされる。当然、人形劇はいつも表現的な運動性を持つことになるわけだ。
 そんなことを考えながら、最近私は新しい関西の人形劇団を3つばかり見た。どれも家内工業的な盛り方、創造力も弱く、物真似にすぎない技法にひどく腹が立った。そして、がっかりした。これらの小さい人形劇団は、もう一度、姿勢を正してもらわねばならないが、そうなるとクラルテなど、さすがに図抜けている。人間性を人形に乗せかえていく、律動性と表現力はできていて、人形の?生命?といったものを、よくにじませる、もちろん、技法や創造法に未発掘な部分も少なくないが、近い例では「ジャングルジムは沈んだ」で劣等感に悩むタロー少年の息のつめ方、ボスの生活力の描出などに人形の個性があった。「真冬に春がやって来た」で雪どけ道を行く人形に哀感があったし、「烏の乳」「セロ弾きのゴーシュ」などなど、生の人間と人形の接点、言いかえれば現実と非現実のないまぜた世界観を、おぼろ気ながらに引き出したかのようである。
 こんど舞台にのる「船乗りクプクプの冒険」は、北杜夫の原作によってという以外に、わたしは何もしらない。が、どうしたことか、この劇団が今年の正月、テレビで出した「船乗りシンドバットの冒険」を、ふと、思い出した。小人たちが塊のように押しかけるあたりの技法にひどく感心したのだが、それがクプクプとどういう関係にあるのかと言われれば、私はトンと分からない、しかし、クプクプのイメージは私なりに次第にふくらんできた。きっとクラルテの威勢のいい、しかも表現的で律動性に富んだ舞台に思いつくだろう。それが楽しい。」

 この続きに、同じ清水さんが1965年の「テアトロ」誌に書かれた文も当時の事情と人形劇に対する問題提起がなされているので、これも全文書いておく。

「人形の妙味にと迷う、クラルテと京芸の場合

 人形劇は子供のものか、大人のためのものか、という問題を、どちらにより多く可能性を見出し得るか、ということに絞ってみると、ある結果が何となく見通せそうであった。このことは、関西を代表する2つの人形劇団、「クラルテ」と「京芸」によって、期せずして試みられる結果となり、前者は子供のための人形劇「ジャングル・ジムはしずんだ」を、後者は「土蜘蝶」を、今年の課題として持ち出されてきた。すでに二つとも初演を終え、実験的な成果がまとめられていく段階にあるが、結論から先に言って、二つの劇は、人形の驚くべき暗示力を秘めたまま、まだ子供のものとも、大人のものとも言えないところでその妙味をもて扱いかねているようであった。人形の持つ、あのあつっこさに、戸惑ったような躊躇すらあった。
 このままだと、子供用だとか、大人用だとかいうこと自体そらぞらしく、人形劇は長い歴史と伝統の中で、その豊富な経験性を見失ってきたせいだと思われなくはない。ここらでいま一度、経験性を掘り返してみる必要がありはしないか。人形劇と人間生活の連携はどう変革の記録をもたらしたかそんなことが、今度の公演から考えられてくる。
 「クラルテ」は、これまでにも宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」、メタリニコフの「鳥の乳」、アンデルセンの原作から「真冬に春がやってきた」など手がけ、一貫して永遠の人間像を求めてきた。求め方に幅がありすぎて、子供と大人の間に問題点があるような創り上げもした。しかし、その技法はあけっぴろげでホリゾント一杯に真っ赤な顔をした太陽をぶらきげたり、生の人間と共演でシンポリックな歌い方をした。時にはヌード・ダンスまで劇中に盛り込もうと企んだりした。純粋で、大まかで、おませで、しかも子うるさい根性の劇団だが、今年の課題作「ジャングル・ジムはしずんだ」(原作 安藤美紀夫、脚色と演出・吉田清治)はこの劇団らしい冒険がない。息をつめたようで、小さく固まった舞台を見せている。現実凝視の目は整っていて混血児であるがために仲間はずれになっている主人公タローの差別観、おもちゃ会社の社長と融資先の銀行の商業主義批判、タローとちびっこ先生をつなぐ教育制のことなど、あげれば、どれもこれも現代の社会の矛盾につながる。その被害から子供を守ろうとするイデアは明確だが、子供の生活感情を、ゆさぶる極め手が羅列的なのが、説明的になって弱い。見事だったのは、おもちゃの国のボスの扱いであった。大きくふくらんで威張っていたポスが、タロー少年に頭の栓を引き抜かれて体内の空気が抜けて終う。トタンに小きな、可愛い存在になって終うのだが、「おめえはもうボスじゃねえ」と、子分にからかわれて、「おいらもこの方ガ楽でいいや」と応えるあたり圧倒的だ。その開放感がすごく楽しい。子供のための可能性が案外、こんなところに潜んでいるのかも知れない。
 それにくらべ、京芸の「土蜘蝶」(作 荒木昭夫、演出・谷ひろし〕ぱ真向うから押し切ってくるような、ひたむきなものがあった。

 この劇団が身上とする自前の創作劇で、室町の時代、時の権力に結びついた猿楽師、元阿弥が新曲「土蜘蛛」を創り上げるくだりを伏線に、ひとたぴ点火されれば、永久に消え去ることはないという、変革の蜂火を、大切に登場させながら、どうしたことか非力な扱いしかしていない。例えば百姓一揆が気勢をあげる「いなりの山上」(第二幕第二場)など、一つのクライマックス・シーンだが、一揆衆の姿は見えず、ムシロ旗数本を立てただけで終わっている。どこか陰気だし、弾圧の軍兵どもの扱いもチャチであった。しかし、この場のはじめに見せる田植え歌の踊りなどに、庶民の歓喜がこもっていたし、その前場「加茂の河原」で死体がごろごろする荒涼とした情景にかぶせて謡を流したり、六道の辻で小屋がけの男に子供がたわむれる点景的な描写にすぐれたものがあった。
 最後の幕切れも若者と乙女のハッピー・エンドにせず、思い思いの使命を果たすため別れていく余韻が効いていた。ただ、そこで思うのだが、プロローグで神武天皇の東征をながながと語る老人など、人形の躍動性を封じておいて、あくまで、舞台を固定しておくことに異論があろう。先に述べた第二幕の「いなりの山上」の場でも竹槍を持ったまま、?とりさし?が意味もなく立ちつくしているようなところがあった、しかし、2つの公演が持った意義は人形劇の可能性を追求しつつある積極的な価値を含んでいて着実な姿勢といえる。これからは人形のもつ妙味をとらえ、表現の技術を把む道がのこされている、といえそうだ。(「テアトロ」4月号1965・4)」

 以上が、清水三郎さんの全文である。ようやくこのあたりで、演劇の専門誌に問題を提起してもらえる批評が載せられるところまできたのであった。この文章の中には、示唆に富む多くのことが提起されいて、最後に書かれている「・・・人形のもつ妙味をとらえ、表現の技術を把む遺がのこされている・・・」つまり人形のもつ妙味の発見、またそれを表現する技術こそが、人形劇を作るうえでの、キーワードである。

(画像/スナップ「人形を遣う吉田清治」1965

集団と個人

 1965年から66年にかけて、劇団員が一度に増えた。新しくアトリエもできて、劇団の経営体制も「有限会社」として対社会的にも通用する体制を整えた。
 仕事のうえではテレビが「楽しいきょうしつ」「はたらくおじさん」(NHK教育)にレギュラーで人形が出演していた。しかし、肝心の学校上演は、作品の上でも、新しいものが生み出されず、「眠りの森の盗賊」を芳川が演出しなおして、学校上演にしたが、あまり評判が思わしくなく僅かに上演しただけで下ろしてしまった。その結果、「ジャングル・ジムは沈んだ」をこれも学校上演用にして持ち、いぜんとして「黄色いこうの烏」を上演レパートリーとしている状態であった。
 脚本で困った時の神頼みであった、渡辺先生が単車に乗っていて交通事故にあい人事不省という重体で入院という事態に、いよいよ自分たちで脚本を書くことを迫られていた。
 劇団員は26名、そのなかで演技部をとってみると、部員16名の内新人は9名という具合であった。アトリエが新しく成ったことで、研究所を開所して、その第一期の卒業生が1966年の1月から参加、その中に松本則子がいた。その多くの新人の養成と、経済的に劇団を成り立たせていくことに懸命であった。しかしアトリエの借金を返すのと、学校上演も2月、3月と11月は決まったが、2月3月はインフルエンザで休校になる学校もあったりで、充分な経済的効果を上げうるところまでには到らず、またテレビはそれほどの経済的にはあてにはできず、劇団員の人数が増えただけ困難になっていた。
 そんななかで、第13回の上演、北杜夫の原作「船乗りクプクプの冒険」を上演した。「どくとるまんぼう」のヒットで、北杜夫のフアンは多い。だからこの芝居は客が入ると踏んだのは甘く、劇団全体も経済的な不安も手伝って、本公演への盛り上がりを欠いたままであったし、劇場公演がマンネリになっていたことも手伝って、一人一人が切符を売ることに懸命ではなかった。ふたを開けてみるとあんに違わず、客の入りは最底であった。その結果年末の総会で、個人の権利の主張と、集団としての考え方の違いが問題になった。劇団員が急増する前は、少人数であり、家族的な劇団の在り方で問題は処理されてきていた、そこでは個人の問題も、家族的な話し合いで何となく問題も先送り作ことで解決されていっていた。しかし30人近くに大きくなって、個人の問題は集団をどのように指導していくかといった、劇団の委員会活動にすべての責任が課せられるようになっていた。しかしそれらはすべて良心的で真面目なものばかりではなかった。吉田がNHKの「たのしいきょうしつ」の構成台本を書いていたが、それを材料に、『NHKから数十万円の専属契約料をもらっている』といったあらぬデマをでっちあげて流され、総会で問題になるといった事態にもなった。
 劇団というものが、民主的な集団であってそこに籍を置くすべての人は等しく権利も義務も平等であるという原則的なことも、古い劇団員と新しく入ってきた人たちとでは、考え方に違いがあった。つまり新しい人たちには、使われているという意識でしか、頭で分かっていても劇団の状態があまり思わしくなくなると、直ちにそのことが問題になってあらわれるのであった。

関西における人形劇フェスティパル

 第一回の関西人形劇フェスティバルが1962年9月に上本町の婦人会館で持たれた。北海道に始まった人形劇のフェスティパル運動は、川尻泰司さんの全国的提案に応え、関西でも1961年の終わり頃から横のつながりができてきて、11の劇団・サークルの参加で準備会が持たれて進められてきていた。
 21団体、150名の参加で、上演と分科会が持たれた。
 第二回は1963年5月に枚方市で二日間持たれた。そして第3回は1964年6月京都で持たれた。毎年フェスティバルを続けてきたことが、第三回の京都で大きな集まりになった。前年の枚方では、小田又次郎さんが地域の人たちの協力をまとめあげて、成功させた。また京都では、京都女子大、子どもの劇場の中川正文さんをはじめとして、京都の劇団サークルの人たちの力が結集した。75団体が参加、地域は北海道、東京、愛知、岐阜、京都、大阪、奈良、兵庫、山口、高地から参加している。
 第四回は神戸で9月に持たれた。ここでも人形劇団プッテの金田一男さんが大きな力になって、3日間、40団体、人形劇人250人の参加を見た。
第五回は大阪に戻ってきて9月に第1回と同じ、大阪府婦人会館で持たれた。
 この五年間にわたる、関西のフェスティバル運動も第五回で幕を閉じた。
 人形劇のフェスティバル運動は全国的にはまだまだ大きな力となって続けられている。
 人形劇のフェスティバルはその後、全日本のフェスティバルとなって、1967年5月東京で5目間にわたって持たれた。
 関西では学生たちのサークルが今日でも「学フェス」となづけられた、人形劇フェスティバルを持っている。

大人のための人形劇「鯨おどり」へ向けて

 1966年の劇場公演は「おやゆび姫」を上演することになった。つまり「真冬に春がやってきた」の焼き直しである。学校上演は、依然として「ジャングル・ジムがしずんだ」「黄色いこうの烏」の2本で2班活動をしていた。

(画像/「おやゆび姫」1)(画像/「おやゆび姫」2
 A班は「真冬に春がやってきた」で大阪を中心に小学校公演をし、B班は「黄色いこうの鳥」で豊岡を中心に山陰地方の公演にでかけた、まだトラック事情も道路状況もよくなかったので、それまでずーっと運送をやってくれていた玉出運送のオート三輪車で米子まで舞台の道具を運んで、荷物を出してみると、スポットライトのネジはみな緩んでしまってがたがたになっていたといったこともあった。今回の旅公演は、劇団として初めてトラック(1トン積み)の中古を買って、運転手に日置をアルバイトにたのみでかけた。クラルテニュースNo.14から書いておこう。

 「旅公演から___今回の旅公演は、劇団として久々の地方回りであり、劇団の自動車を使用するという今までになかった形で行われ、その成果はかなり大きく注目されていた。そこで、その旅公演を終えて来たB班の書簡集と子どもの手紙を掲載してみました。

地方の子ども達とも仲良しに
___旅公演づいたB班___
さる6 月5 日より1カ月間「黄色いこうの鳥」等三本のレパ-トリ-を持って、但馬路を巡演。約一カ月の間をおいて再び彦根地方にと立て続けに旅公演していたB班が、9月17日無事帰団した。
 香住、豊岡、養父郡と広範囲にわたって活躍した但馬路公演は純朴な子ども達と、土地の人々の積極的な助力によって成功を得ることができた。彦根地方は、2週間という短期間ではあったが、学校毎に、熱心な歓迎を受竹、なかでも彦根市内にある小学校で、窓ぎわにいた児重たちから「クラルテの皆さんがんばって下さい」と書かれた紙を示されるにいたっては、B班一同感激のあまりしばし言葉につまるという一場面もあった。
 都会で忘れかけていた心の交流を感じ、また来年もという強い要望を受けて全員無事帰阪した。
 
 旅日記から
___6月26日____
 24日の夜、地元の若いグループ『若鮎』のメンバーと人形劇について、話し合いをもった。この人たちは、各人職業が違っており、日曜日に集まって子供会活動をしている。私たちは、ここで休日を一日共にしてこの地方に残る文化財をたずねた。昼、食事をして私たちが宿舎で待っていると、小橋、西岡、山下、森、安原の五名が自動車で駆けつけてきて一時に出発した。若鮎の人たちから話を聞いた時から、八鹿町葛畑(かずらはた)の農民歌舞伎に興味を引かれていた。部落につくと、バス停の前の家にすんでいる農民歌舞伎保存会の会長、西村修氏が出てこられ小屋に向かう。(このあと農村歌舞伎の舞台を見せてもらった記録が書かれている)

「B班から劇団へ_____班責の手紙より

今日(14 日)でとうとうと流れる円山川とも教育会館とも別れて豊岡市をあとに、養父郡に入りました。豊岡市内での公演は、大変好評のうちに終わりホッとしています。どの学校も終わりのあいさつに行くと必ず、校長先生自らが玄関までお見送り、車が動き出すまで手をふってくださる。豊岡小の校長先生のお宅がわれわれの宿舎の隣なのですが、市内のあちこちでお芝居の評価や生活態度を話されたらしい。大変まじめで規測正しい生活をしておられる。朝もチャンと掃除して・・・云々と、われわれとしては穴がありゃ入りたい。どうしてそういうことになったのか・・・、路上でバレボールをしていて、その校長先生のお尻にボールをぶっつけたりしているのに。豊岡市最後の公演は老人ホーム。畳の部屋で設営、皆正座して優雅に舞台を組立てた、おじいさん、おぱあさんを観客に幕を開けましたが、これがまた、大変な受けよう。とにかく笑いと拍手の渦。竜がでるとパチパチ、玉が割れるとパチパチ・・が、お芝居の内容はよくわかってくれました。中には大変ハッスルおじいさんがいて、ハチ巻きをしめて、まっちゃん(松本則子)と伸良くセットを立てていました。ロータリークラブ主催なのでやたらと新聞記者がきていました。・・・」

 地方公演に大きな希望を持って、進めた仕事であった。六名の小班編成で経費の節約を計った。しかし大阪での公演とは違い、宿、食費、交通費と経費は多くかかった。そこへ持ってきて、地方の小学校ぱ生徒数がそれほどでもなく、ギャラだてでは無理で、生徒一人いくらというギャラで上演した。どうしても採算的には、人数の多い学校を狙うが、大きな学校は上演が難しく、少人数の学校でも上演しなくてはならないことになり、ギャラとして、経費倒れになりかねなかった。その翌年にも、豊岡へ「ジャングル・ジムはしずんだ」を持っていった。
 この公演には八鹿町の人形劇集団「若鮎」の方々にはなにかにつけて励まされ、また世話になった。

 経済的にはあまりかんばしくないまま、第15回の劇場公演をどうするかが問題になっていった。その頃に宇津木秀甫さんが、大阪堺の大魚夜市と住吉大社にまつわる伝説から、民謡を発掘しそれをもとに、人形劇を書いてみたいという話が持ち上がり、?大人のための人形劇?としてぜひやろうということになった。しかしすんなりと大人のための公演が決まったわけではなかった。なぜなら、大人のための公演を持って、経済的に黒字が出る可能性はなかった。その頃の劇団の経済状態は先にも書いたように、劇団員の数が急に増え、劇団活動の経済的な仕事の量と人数とが合理的な関係ではなかった、つまりまだ充分に銭が稼げる人数が少なかった。そのために経済を優先するか、はたまた、創造的な成果をここで自分たちのものにするか、という問題がこの公演を持つか持たざるかといった、意見の対立が顕著になっていった。劇団が豊かになるためには、売れる商品をいかに作るか、といったことしか豊かにしうる可能性はない。しかし、商品をうみだすまでの力量がない場合には、どうしても創造的な苦労をするよりも、まず経済的に手っ取り早いことへ考えが流されてしまう。その結果は創造的にはなにも財産とすることができなくて、じり貧という結果をもたらす。
 7月31日、8月4日、14日と3日間にわたって劇団の中間総会が持たれ、この「鯨おどり」の公演を持つか持たざるかの、意思統一をはかった。その中で、退団を表明したものもいたし、経済的な見通しが立たず、制作部長であった宮坂が部長を退き、芳川に交代するといったこともその中にはあった。そして宮坂は経済的な困難さから、その年の年末に劇団を休団して、義理の兄がやっていたラーメン屋に勤め、やがてはラーメン屋の親父さんになることをよぎなくさせられていた。しかし、それは半年しか続かず、またクラルテに戻ってくる結末となった。つまりその当時は、それくらい経済的な問題で劇団の一人一人は困っていた。
 そのなかで、大人のための公演をやろうとする劇団の委員会と新しい劇団員との対立はやむを得なかった。しかし私はなんとしても、この公演を成功させることなくして、その時の劇団の活動を積極的な方向に持っていくことはできないと考えていた。つまり、人形劇の社会的な評価はまだまだ低く、それはわれわれの創造的な力量そのものの低さでもあった。なんとかその創造的力量を高めることでしか、社会的な評価も高めることはできないからである。そのためには、大人のための人形劇として銘打った公演を持つことで少しでも前に進めることができるのではないかと考えた。
 一方で劇団の演技部の人たちによるポードビルの試演会を8月31日にもち5本の作品を上演、作品を生み出すエネルギーの大切さと、その喜びを皆のものにするといったこともやった。またレパートリーの決定の民主化を計るために『レパートリー委員会』を総会で選び新しい作品作りに当たることを決めた。

第15回公演大人のための人形劇〔民話とパントマイム〕

 この公演で「人形によるパントマイム___死を求める男」を前座に上演した。
 人形は本来言語表現は不自由なものと考えていた。それで全く言葉での表現を持たない人形劇の舞台を作りたいと考えていたところに、この公演で「鯨おどり」が時問的に少し短いということで、急に「死を求める男」を書いた。
何とか死にたいと願う男があらゆる死を実行にうつすのであるが、ことごとく失敗、つまり死ぬことができない。終いに死をあきらめて生きていこうと心を変えたとき、ゴルフのボールにあたってあえなくも死んでしまうといった舞台であった。

  沖に見えるは コラセ 鯨の山か
   陸へのぼせぱア 黄金山 マカセ
  つつじ椿は コラセ 野山を照らす
   背美の子待ちは 浜照らす マカセ
  めでためでたの コラセ 若松さまよ
   枝もさかえる 木も茂る マカセ

 この舞台の音楽には、何とか義太夫三味線でやりたいということになり、文楽の三味線の方にお願いした。作曲は野沢勝平(現喜左衛門)で、演奏は野沢勝平、鶴沢清治といった豪華顔触れで、生で演奏をしてもらった。僅かな出演料で快く出演して頂いたのには感謝にたえない。
 初演の朝日生命ホール(1966年10月20日〜22日)での公演にはパンフレットを印刷するだけのお金が無かったのか、一枚ものの三つ折りのリーフレットしか印刷されなかった。

この年(1966年)の年末総会の資料から書いておこう。

 はじめに___と書かれた中に輪田星輝の退団が報告されている。吉田が病気入院した61年に入団、美術部の仕事を一手に引き受けていたし、劇団委員にもなっていたが、家庭的な事情で広島に帰ることにになった。その問題をふまえて、

 「委員会がこの問題に対して取った基本的な考え方は、イ、劇団活動は、日常的な創造活動の中に個々人の生きる意味を見出し、劇団(集団)を自分のものとして考える基盤を持たなければならない。ロ、個人の生活を守ることの大切さは、創造活動の基盤として、活動と生活はどちらが先かという考え方ではなく、そこに生じた矛盾は集団的に解決されなければならない。」
 と書かれている。
 また一般活動報告としては、
  「七年ぶりに不況が見舞った本年はいろいろが点で問題が明らかにされてきた。経済的な困難きが明らかにしてくれたわけではなく、困難な中で創造上の前進をなし得たからだと思う。年二回の一般公演と、二回のボードビル発表会は劇団員の一人一人に成長を見た。劇団内で持ったボードビル発表会からアトリエ公演への飛躍は明らかであり、おやゆび姫から、鯨おどりへの成長もあきらかである。学校上演でもA班のテープ上演から、生上演へ、またB班の少人数上演の定着化もめざましい、にもかかわらずこうも経済的に困難であったのか?・・・(そして最後は)労音での〃鯨おどり〃が文楽と共演がきまっている来年は、人形劇運動の中でも輝かしい一ぺージをかざる夜明けとして迎えよう。」
 と締め括られている。
 幸いなことに、宇津木さんの制作力でもって、翌年の二月の大阪労音の選択の文楽例会に「鯨おどり」を文楽の「心中天の網島」と同じ舞台(朝日座)で上演できることになった。今度はちゃんとしたパンフレットを作らなくてはならじとがんばってパンフレットをつくった。その中から書いておこう。

「人形劇の新しい鼓動____清水三郎
 『クラルテ』をみるたびに思うのだが、その舞台から、おおらかな生命力がにじみ出てきたような気がしてならない。おおらかな生命力、などというと、すぐ民話劇と結びついて、ああ、あの人間どものバイタリテイか、と考えがちだが、なにもそれに限ったことではない。例えばこの劇団の近作に、真っ赤な太陽を舞台一杯にはりだして、人間の存在そのものに不敵な息吹を吹きかけたようなものがあった。また希望を求めて、青く輝く大空をまっしぐらに飛んでいく小鳥の姿に永遠の信条を謳ったかのような舞台があった。その手ぎわが、虚構と真実、遊戯と現実をないまぜにする人形劇の中で、鮮やかな影をひいて映った、おおらかな生命力のほとばしる瞬間を、私は『クラルテ』の舞台に、たびたび見かけるようになった。
 そんなとき、『鯨おどり』の公演が近づいていた。土地の奉行にいじめ抜かれた堺の漁師たちが、?鯨とり?にうっぷんを晴らすという民話仕立てだが、人形劇の叙事性を民話の世界から引き出そうとする作者(宇津木秀甫)の話しっぷりが、さも楽しそうであった。それに文楽の人たちの協力で、音楽はフト(太樟)一本にするというのも、こうした人形劇運動には全く初めてのこと。なにやかやと『クラルテ』の新しい鼓動と思ってみたりした。ただ『クラルテ』の創造力の中に、自意識に過ぎる面もないではない、近作『死を求める男』など、パントマイムで人形の極限を見せる好短編だが、意識的に生硬なのが惜しかった、こうだと思ったらもうゴリ押しの、やんちゃ者なのだ。
 ところで、『鯨おどり』は、昨秋十月に試演された。少々材料を盛りすぎたようで、あれもこれもと筋立てがうるさくて、反って人形劇の独自性を害していたようである。もっと人形を生き生きと使いきることで、劇は大きく開くはずなのだが、所詮は熟さず、もう一度ここで手直ししてみる必要があった。幸いその機会が早く来た。これから、労音の舞台で、うんと凝縮したものを見せることができるからだ。
 つい最近、チェコの人形劇団を見ての帰り、そこの若い女優さんに紹介された。どこかで日本の若者たちの舞台を見たのであろう、「みなさん、大変、お上手です。ただ、人形劇の音楽は人形の動きを装飾化するためとか、説明するためとかに使われるものではありません。音楽を見る気持ち、ね、分かりますか?」と、にっこりした。もちろん、通訳を通しての話である。
 『クラルテ』も、これから『鯨おどり』で音楽を見せるのだが、民話ミュージカルと自負するものが、どうあるか、また、おおらかな生命力をどう謳いあげるかわたしは連想をたくましくした。」

 そして演出にあたっての宇津木秀甫さんの、「海のうらみ」の中の最後のところを書いておこう。

 「・・・結局人形劇でということになったが、人形劇でなけれは海のうらみ、漁民のうらみ、鯨の姿などが効果的にあらわせないだろう。おどろおどろして、しかもなまなましい根性場をつくってみたいと初演以来ねがいつづけていたのだが、初演ではクラルテの人たちと三味線の野沢勝平さん、鶴沢清治さん、そしてクラルテの演出家吉田清治さんという寄り合い世帯の悲しさで半分ほどしか成果はあがらなかったようである。再演のために台本も書きかえ、稽古を重ね、三味線もさらに作曲しなおされた。呼吸が合ってきた感じである。「完成してください。クラルテの新しい古典になるのです」と一言ってくれたクラルテの支持者のぱげまし、吉田さんを核にしたクラルテのみなさんの熱意、野沢さんの意気ごみ、それらが作品のきばった風格をつくりだして下さったようである。私は「言いだし兵衛」で、仕上げたのは私ではなかった。今、私は「言いだし兵衛」として海の鎮魂歌が一つできたことで、ちょっぴり満足している。けれど、海のうらみはまだはらせないことは知っているつもりである。」

 この「鯨おどり」は残念ながら、クラルテの新しい古典にはならなかったが、大人のための公演の先鞭をつけ、ここから近松物の日本の古典人形劇シリーズの作品を生み出す足掛かりを作ったことは間違いがない。

 閑話休題___初演の時には「くぐつ師」として狂言回しの役に松本則子がなまで登場したが(新人ではあったが、度胸がありそうやということで役が振られた)、再演ではカットされてしまって、残念がっていた。初めての「大人のための人形劇」と銘打った第一回の公演は、経済的には困難であったが、経済的な困難さを克服するための考え方は単純で、創造的に価値のある作品を作るということに尽木ることをおしえられた。そして、学校公演のための作品として万玉秀樹作「不思議な玉」が誕生した。演出・美術も万玉が担当した。

(画像/「不思議な玉」
 パンフレットの解説には
 
「?不思議な玉?は、昭和42年度、学校上演のために書き下ろされた創作です。クラルテがこれまで止演してきました作品の多くは、内外の児童文学を脚色したものでありました、昨年度の〃ジャグル・ジム泌しずんだ〃(等々中略)いずれも脚色あるいは翻訳作品でありました。〃不思議な玉〃は、現代と過去を舞台に、今日の子どものヴァイタリティをうたいあげたオリジナルな作品です。」

 小学校上演として最初から企画されて制作、上演した第一作であった。子どもたちからの感想文も、不思議な玉に対する様々な反応をしめしていた。ようやく、新しい脚本作家を生み出して、学校土演にも新しい息吹を吹き込もうと大いに期待を持てた。
 そして第16回公演に「さるとかに」を、8月18日、20日〜23日の5日間、淀屋橋朝日生命ホールで上演した。後に日本民話三部作の第一作目の作品であった。
 1959年に0TVテレビで美和田愛子作で「さるかに合戦」を放送したことがあった。この舞台では、日本の民話を下敷きにしながら、まったく自由な脚色を試みた。かに、くり、うす、そして蜂のかわりに、がまを出し、それぞれに親達がいて職業を特っているという設定にした、また猿はオートバイを乗り回す現代のあんちゃん風ならずものとして登場させた。この芝居から、子どものための劇場公演として、大阪の周辺都市にできてきた市民会館でのセンター公演が企画されていった、劇団全体としても、子どもの観客を対象にすることを全面的に押し進めるべく、それまで、細々としか出しえなかったクラルテニュースを全面的に改変して「クラルテ子どもニュース」として出していくことにした。
 1968年3月に「クラルテこどもニュース」の第一号がでているのであるが、残念ながら手元にその資料が無い。
 次の第二号は、1968年の6月に出されていて、第一面は「学校で見る人形劇トルストイの名作『イワンの馬鹿』を人形劇に」となっていて、小学校の学級単位に配るのを一つの目標にした。
 第四面に、「クラルテのウルトラCはん、小さなにんぎょうげきじよう」の誕生の文が見える。『ウルトラC班』のウルトラというのは、東京オリンピツクで体操チームが高い難度の技を『ウルトラCの技』といっていたことから、二人で上演する班をその言葉にあやかって付けた。
 レパートリーは「大きなだいこん」と「ニャオーとないたのはだれだ」の二本が紹介されている。「だるまちゃんとてんぐちゃん」が前年の七月に作られていて、この辺りから、幼稚園・保育所を対象にした二人で上演していこうとした小班の体制ができかけて来ていた。

   1967年上演記録
   1968年上演記録
    小学校上演 A班113日
         A班112日
         B班109日
         B班 44日
   幼稚園保育所C班45日
         C班150日
   センター公演   25日

 この記録を見ても、幼稚園保育所でのC班公演が一度に増加していることに注目される。つまり今まで、幼稚園保育所へ出かけていって人形劇を見てもらうということは、劇団の体制としてなかった。学校上演の低学年のための芝居を見て頂くには、一つの幼稚園保育所では予算がたりなかったし、上演するスペースも無かったためにできなかった。それでニ人で運搬から上演までを全部やってのけるC班を作ることで上演できる場を拡大することができた。

 1967年(昭和四二年度)大阪府民劇場奨励賞を受けた。「さるとかに」を中心とした、大阪府下における上演活動にたいしてであつた。