劇評をご紹介します。

人形劇団クラルテの「三文オペラ」
-その挑戦と課題-
大内 祥子
(『上方芸能』 No.151 2004年3月号より)


 ■曲者なり「三文オペラ」

 もっと大胆であって欲しかった。人形劇ならではの味付が、どんな舞台を創り上げるのか、コミカルに徹するのか、おどろおどろしく運ぶのか、それともマシーン横行の騒ぎに表現するのかと楽しみにしていた。その舞台は、各場面ごとに工夫があって丁寧なつくりであったのに」どうしてか核心が伝わってこなかった。なんでだろう!「三文オペラ」はやっぱり難しい。世界の演劇人はこの作品に羨望のマナコを向ける。というのは、作品に組み込まれた時代と都市と群衆とのすさまじいるつぼのドラマであるからだろう。紀元このかた、どの時代であってもどんな都市であっても、例えばオオサカ、ニューヨーク、バグダッド、ベルリンでもロンドンにも同様の有象無象のひしめき合いを抱えねばならない状況を、鋭い比喩をもってドラマに息づかせている。登場者たちは魑魅魍魎、とびっきりのワルばかりだ。こうした人間の浅ましさ、非常さ、おぞましさに度肝を抜かれながらも共鳴してしまう痛快な作品だ。プレヒト三十歳での「三文オペラ」が初演されたのが一九二八年のベルリン、観客は拍手喝釆、「モリタート」を口ずさみながら帰途についたそうだ。そのまま一年あまりのロングランに入ったといういわくつきの作品なのだ。このベルトルド・プレヒトの戯曲に、目立たないようでいて聞き逃せないメロディを全篇につけたのがクルト・ワイル。この戯曲にこの音楽があってこその「三文オペラ」の成立である。それだけに、この作品を守ろうとする人たちは、とてつもない厳しい著作権の条件をつける。となれば上演側は創意工夫に手をつくし、観客が現代と重ねて、作品にいかにフィットしてくれるのか、その反応に注意する。人形劇団クラルテは二〇〇三年に、劇団創立五十五周年を迎えた。劇団の記念作品として、また大阪文化祭と大阪新劇フェスティバル参加作品としてこの大作に取り組んだ。脚色・東口次登、演出・井田邦明、音楽監督一ノ瀬季生。人形劇団の「三文オペラ」上演も日本初にちがいない。今回は会場も国立文楽劇場大ホールに決めて、六回公演という挑戦である。関西の演劇界にあっては抜きん出た気力実力を持つ劇団である。それだけに再演の希望をこめて、気になる部分を記しておきたい。

 ■舞台のつくり方

 さて物語は、十八世紀のロンドンが舞台である。プロローグも加えて二幕九場、下町にたむろするアウトローをあぶり出す。音楽が入ると舞台中央に、作者プレヒトを思わせる男が手廻しオルガンを廻しながら迫り上ってさて、群衆と共にスクリーン映像にあわせて唄う。事件のもろもろをしきりとからかい踊り歌って盛りあげる。次場面は乞食衣裳店へと変わる。くたびれた姿の男がやってきて、主人のビーチヤム(三木孝信・好演)に乞食商売を申し入れると、衣裳も靴も店がすっかり巻きあげて、クローゼットにずらり並んだ衣裳の一つが手渡され、所場もきめられ、リベートも割り当てられて、仕方なく男はピーチャムに従うことを誓わされる。衣裳店とはいえ、乞食コンツェルンのような手広い商売で、同じようにえげつない妻と、ポリーという名の娘(奥村佳子)と暮らしている大ボスなのである。折りも折り、娘ポリーがある男に惚れていることを聞く。その男はなめし皮の白手袋に象牙の柄のステッキにエナメル靴のしゃれ者だと知ってびっくり。その男こそ大盗賊団のボスのメッキー・メッサー(西島加寿子・力演)であった。娘ポリーはとうとうメッキーと結婚。馬小屋を借用し、大テーブルもご馳走も盗品ばかりで結婚の大式典、祝いにかけつけて来たのが何と英国の警視総監タイガー・ブラウン(松原康弘)。二人はなんと、かつてインドでの軍隊時代からの親友で、今だって、ことあるごとに助け合うほどの強い絆。ピーチャムは娘ポリーを取り戻したいのと、メッキーの首にかけられた懸賞金もあわせてせしめようと画策を始める。逃走したメッキーはうまく馴染みの売春宿に隠れたものの、昔の女ジェニー(西村和子・手がたい演技だ)に密告されて監獄に連行された。監獄のメッキーの廻りには女たちやピーチャムにタイガーたちが立ち現れてテンヤワンヤ、とうとう絞首刑執行に追いつめられた。その刹那タイガーが駆けつけた。「載冠式のこのよき日、メッキーは釈放と決定、さらに彼を貴族に列する!」というのが物語のオチとなる。「三文オペラ」は聖書のパロディだと言われる。ただ最後の処刑を行わないことで、民衆の崇拝者をこさえなかったともいわれるように、歴史に通底した人間のあさましさと哀れさとを、こうした構成で当時の観客をわかせたブレヒトのセンスには、ますます興味を魅かれる。ずらりと並んだ人形たちはいずれも大変個性派。表情の味わいからも人形美術の永島梨桂子の熱意が伝わった。メッキーのような大型の場合では二人遭いで演技をこなしたとはいえ、歌まで優等生で通そうとするのはちょっとかわいそう。演出の中でもっと方法はなかったのだろうか。楽しめたのは廻り舞台を大きく扱った淫売宿の場。廻る盆上にいくつもの屋台が置かれて、それを宿として女たちがたむろしている場などは、これぞ人形による本領発揮といえるだろう。なやましげであったり、ふてぶてしかったり、シナを作っていたり、飛び跳ねもしたりの、なんとチャーミングな場面であったことか。どうしても検討を求めたいのは音楽についてである。一ノ瀬季生の音楽には安定性があったのに、今回は演出の井田邦明の方針かもしれないけれど、文楽劇場の上手の床にアンサンブルの九名を乗せたことが、舞台と音楽の一体感を疎外した。以前の「セロ弾きのゴーシユ」で人形とアンサンブルのすばらしい組み合わせをみせたクラルテが、今回せっかくのオペラに、体が乗らなかったのはどうしたことだろう。これは再考がほしい。そして再度の上演を待たせてもらおう。大人向け作品のいっそうの充実に期待している。


有名作品に怖じることなく立ち向かう
演劇評論家  神澤 和明

人形劇団クラルテ『三文オペラ』
ベルトルト・ブレヒト/作 東口次登/訳
井田邦明 演出


 人形の動かない表情は、変化の激しい社会の上辺を透き通して、実体を批判的に眺めているようにも見える。そしてその顔に「異質」を感じる。ブレヒト劇の「異化作用」と人形芝居は通じるものがあるかもしれない。人形劇で「三文オペラ」を演じるという思い切った挑戦を、クラルテは行なった。イタリアで活躍する演出家を招聘しての上演である。粗筋を書くには及ぶまい。 展開されるのは紳士叔女の飾りをはぎとって、人間の欲望の愚かさや身勝手さ、金のある者はさらに豊かに、無い者はさらに惨めになってゆく社会制度の矛盾を、はっきり示してゆこうと意図した舞台である。独特のデフォルメがなされた人形たちは、意地の悪い顔つきや巨大なバストを突き出して、性的で猥雑な気分に満ちた悪党たちの馬鹿騒ぎを繰り広げて行く。最も貧しい階層の乞食から搾取を行う乞食会社社長・ピーチャム(三木孝信)のしたたかさ、盗賊マクフィスと馴れ合う警視総監・ブラウン(松原康弘)の身勝手な自己保身ぶりなどが滑稽に示され、経済や政治の「いかさま性」が笑われる。特に終盤で、「汚いもの」を隠してすませている上層階級のおごりに、乞食の行列という手段で民衆が抗議しようとする場面では、階級対立の構図が明確に示される。ここで人形遣いが姿を見せて、まさに「異化作用」による表現になった。穴の底に吸い込まれるような牢獄、下品で陽気な娼婦の館、また一方で天を衝く摩天楼の俯瞰を描くシュールな美術は、現実の裏側にある世界を示すように見えた。だが舞台が全体に騒がしいためか、主要な人間関係が埋没してしまった。マクフィス(西島加寿子)に魅力がなく目立たない。演技者のせいというより、演出の結果だろう。ナイフ使いの殺し屋でありながら、お行儀良い銀行経営を企て、しなやかに社会の裏を生きるマクフィスを軸にして、芝居が展開するはずなのだが。彼を巡るポリーやルーシーの位置づけもすっきりしないし、マクフィスの逮捕や牢獄からの脱出といった、騒がしい場面の繰り返しの印象が、共通してしまう。マクフィスに関しては、人間の役者が細やかに仕分ける方が生きるのだろうか。対して、ジェニー(西村和子)を始めとする娼婦たちは溌刺と存在感を示していた。「オペラ」の大きな要素であるソングに関しては、生バンドの演奏に負けず、演技者たちはそれなりに歌えていた。生身の人間のまま登場する、白塗りの大道歌芸人・プレヒト(山田暁美)が歌う「モリタート」に始まって、次々と馴染みのある曲が流れ、耳を楽しませてくれる。反面、多くのセリフが不明瞭で聞き取りづらかった。イタリア式の横に広げて響かす歌唱発声を習ったのだろうか。歌は伸ばす音が多いのでそれで良いが、口の奥の開きを広いままでしやべると、母音がつながって発音不明瞭になる。歌とセリフで発声を切り替えるか、歌でも発音が明瞭になる、縦に開いて響かすドイツ式発声を採れば良かったろう。もっとも、わざと過剰に使われる性的・暴力的で不愉快な言葉があまり際だたなかったのは、私にとってはありがたかった。(10月2日夜 国立文楽劇場)