七つの人形の恋物語

舞台女優を夢見てパリに出てきたムーシュ。だが現実は厳しく、全てのオーディションに落ち、食べるために場末のストリップ小屋で踊っていた。やがてそこもお払い箱になり、絶望し、セーヌ河に飛び込む決心を…と、不意に「おーい、その子、河の底は寒いぜ」振り向くと赤毛の少年の人形が語りかけてきた。そこは人形一座「キャプテン・コック一座」の芝居小屋、ムーシュは今までの苦難を忘れ、幻想的な世界に惹き込まれていく。そして人形たちと言葉を交わすムーシュの不思議な魅力が見いだされ、人形一座の座員に。
しかし、座頭で人形遣いのミシェルは悪魔のように冷徹な男だった。だが、ミシェルが操る人形たちは魅力的で、ムーシュの心を掴み離さない。
少女のように純粋な女と冷徹な男に、七つの人形たちが本当の気持ちを伝えてくれる。

原作 ポール・ギャリコ
矢川澄子(角川文庫刊)
企画 稲岡正順
脚色・演出 東口次登
人形美術 松原康弘
舞台美術 西島加寿子
音楽 一ノ瀬季生
照明 永山康英
舞台監督 藤田光平
制作 松澤美保

人形劇『七つの人形の恋物語』公演に寄せて

「企画」者の推薦の弁 稲岡正順

 「人形劇団クラルテ」は劇芸術界の中で「自己完結」的な側面を持つ集団である。全ての作業を劇団内部でこなし完成させ終了させてしまう。これは志を同じくする人々の集団として重要なことである。配役は勿論、全スタッフは(照明を除いて)すべて劇団員でまかなう。人形製作のアトリエが有るのは当たり前だが、大道具や小道具の製作も自前でやる。出演者を外部から導入することは頑固に拒絶する。劇団として当然のように思えるかも知れないが、私がかつて所属した劇団では、俳優の演技だけが自前で、舞台美術や小道具、音響、音楽、衣装などのプランナーは全て演出家の好みで外部に依頼し、それらの製作も外注である。照明、音響、運搬のスタッフ職はもとより、時には演出家さえも外部に求める。これは到底「自己完結」的な芸術集団とは云えなくて、単なるプロダクションだ。
私はかつてポール・ギャリコの小説「七つの人形の恋物語」を脚本にした。いつか自分で演出をしたいと思っていたが果たせずにいた。だが、「クラルテ」の演出家の東口さんと一緒に仕事をする機会があって親交を深め、本公演のレパートリーの候補にどうかと彼に渡したのが「七つの人形の恋物語」である。私が劇化した脚本はかなりの翻案がなされて冗長だったが、「クラルテ」の劇団総会で承認を得た脚本は「東口版」であって、原作の小説にかなり忠実な台本になっていた。無論私に異論がある訳がない。「期待しています!」と申し上げた。で、稽古初めに「企画」者として私のこの劇に対する思いと「クラルテ」に推薦した理由を、関係者一同の前で話すことになった。以下は私の話の概略である。  まず、ポール・ギャリコの作品「七つの人形の恋物語」とテーマが共通の有名な作品をいくつか挙げた。同じポール・ギャリコの作「白雁(スノーグース)」がある。
「白雁」の主人公ラヤダーは、せむしで背中は曲がりおまけに左腕は萎えしなびているが、実は素晴らしい絵の才能の持ち主の男で、傷ついて野鳥の世話をし、絵を描きながら暮らしている。壊れた灯台跡に住み込むラヤダーを、怪我をした白雁を抱いた少女フリスはやって来て治療を頼む。少女は治療の間にラヤダーの動物への愛や、卓越した絵の才能に接し心を奪われていく。渡り鳥の白雁は傷がいえると灯台から去り、毎年秋にはラヤダーの灯台跡に帰ってくるようになり、その間だけフリスもラヤダーのもとを訪れ楽しい時を共有する。しかしラヤダーはある日突然、命を懸けた尊い行いのために灯台を去ってしまう。ドイツ軍に包囲されて集中砲撃を受けているダンケルク島のイギリス兵を島から脱出させるため、自らの小型ヨットで命がけの舟出をする。以後二人は二度と会うことはなかった。
この物語は、少女と絵描きとの愛の物語でもあるが、それ以上に、社会から忌み嫌われた男が誰にも知られずに行った尊い生き方がテーマとなっている。
次に、ガストン・ルルー原作の有名な「オペラ座の怪人」の主人公も醜い顔を仮面で覆っている怪人である。その怪人が美しい歌手クリスティーヌに恋をする物語である。クリスティーヌはオベラ座に棲みつく仮面の怪人の素顔に接してその醜さに驚愕し嫌悪感を抱くが、怪人の音楽に対する至高の才能と、醜さゆえの孤独が同居する姿を見て憐憫の情を起こす。クリスティーヌは彼女を慕う男を捨て、怪人の才能への尊敬と愛を示すため怪人に歩み寄って、誰もが忌み嫌ったその醜い顔を正視しながら接吻する。この作品もまた、醜い男の才能に美しい乙女の愛を示す物語である。
さて、「七つの人形の恋物語」の作者ポール・ギャリコは一時スポーツ記者として名声を博した。彼はスポーツが持つ逞しさと残酷さ醜さの一面を知っていたし、運動家の心の美しさを知っている。「七つの人形の恋物語」は軟弱な美男子がはびこる現代女性への警鐘の劇とも云える。  「七つの人形の恋物語」にも残酷で醜い人形遣いミシェルと、彼に遣われる七体の人形が出てくる。七体の人形は皆、個性的で素晴らしいキャラクターで描かれている。この劇には人形たちのほかに人間も登場する。七体の人形を操る人形遣いミシェルとこの一座に紛れ込んで出演する少女ムーシュ、舞台監督の黒人のゴーロである。私はこの三人は人形でなく生身の役者が演じるのだろうと考えていた。
その理由は最終景で、ムーシュが若いアクロバット男に恋をし、彼と一緒に一座を去ろうとするが、軽薄なアクロバットの若者に比べてミシェルの真実の男の愛の深さにムーシュは気づく。この場面こそこの劇世界の総てを集約する。だからこの劇世界を煩雑に描いてはならないと思っていた。
哲学者の人形ムッシュ・ニコラが男の真実の愛を綿々と語る。ムッシュ・ニコラが述べる男性論は、遣い手のミシェルの真情の告白である。それを全的に理解したムーシュが人形舞台のケコミ幕を引き倒すと、そこにはニコラ人形に手を突っ込んだミシェルの姿がシルエットとなって佇立している。最早、七つの人形は「木偶の棒」となりミシェルの足元に散らばっている。そして二人は抱擁し、たましいは固く結ばれる。この場面にはミシェルとムーシュの二人だけが舞台にいることが演劇的である。傍らでこの情景を眺める醜い黒人ゴーロは快哉を叫ぶが、ゴーロはミシェルの「醜さと真実なたましい」を共有している存在であり精神の同一性を宿しているのであって、舞台には二人だけが居るのと同じだ。
以上が私の、醜さの内部に宿るたましいの美しさをテーマにした「七つの人形の恋物語」を「人形劇団クラルテ」に薦めた意図である。「人形劇団クラルテ」は純粋で美しい「自己完結」的集団であるからだ。
ところが、「自己完結」的「人形劇団クラルテ」は稽古初日に私が語った私のこの思いを容認してくれなかったようだ。演出家の東口さんは「人形遣い」について牢固な信念を持っている。観客の前でうちの役者(彼らは出演者をこう呼ぶ)同士が舞台で抱き合うなんて許せない、彼らは人形遣いなんだから、だからと云って外部の、例えば新劇団の役者に出演を依頼することも人形劇団の沽券にかかわる、第一彼らに人形は遣えない。と云う。ところが…、「ねえ、出来ないよね?」という演出家の問いかけにミシェルの役者は黙っていたが、ムーシュ役の女優さんは「私、出来ます!」と事もなげに答えた。私は東口さんの顔を見ることは出来なかったが、蒼ざめているのを感じた。果たして公演ではどの様になっているのだろうか、楽しみである。

稲岡正順プロフィール

1940年生まれ。1960年「劇団仲間」入団。1966年日本大学芸術学部卒業。1974年文化庁在外研修員としてヨーロッパ・アメリカに留学。イギリス「ロイヤル シェイクスピア カンパニー」等で演出を研修。1982年日本演劇家代表団として中国各地を訪問。「劇団仲間」にて、ヴェデキント作「春のめざめ」、イプセン作「人形の家」、デヴィッド・ウッド作「それゆけクッキーマン」など多数演出。
1991年「劇団仲間」退団。1993年劇団「槿花舎」設立。